日本のすがた・かたち

2014年6月4日
ヨッコラショ!

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よく「モノは裏切らない」という言葉を聞きます。

確かに作業を通じて作り上げているモノは、人を裏切ることはありません。

裏切りとは人と人との関係から生ずるものだからです。

人の一生は裏切りやウソと道連れで、こればかりは避けることはできません。

「裏切ったことはない」と断言している人も、相手から見れば裏切り者と思われていることがあります。

 

最近、知人から打ち明けられた裏切り話に考えさせられたことがありました。

聞いていて、「己はどうか?」との疑問が湧きました。

疑問の行きつく先にあるものは、「目に見えない期待」でした。

多分、期待をもつことがなければ裏切りは少なくなると思います。

 

そして裏切りに伴う不安についてです。

問 「先の分からない不安はどこから来るのですか」。

答 「生きているところからだ」。

問 「生きている間は不安から逃れられないのですか」。

答 「その通り」

問 「不安を除くにはどうしたらいいのでしょうか」

答 「よし、取り除いてやるからその不安というやつを、今ここに出してみよ」

言 「それは無理なことです」

答 「不安というものはもともと実体のないものだ。それにとらわれているだけなのだ」

 

初祖達磨と二祖慧可との禅問答のようですが、確かに私たちは日々実体のない不安にさいなまれながら暮らしています。

考えてみると、その不安や裏切りは、自らが創りだしているということです。

人と交われば交わるほど不安は膨らみ、そして裏切られる度合いも膨らみます。

期待は不安を呼び、期待は裏切りを招きます。喜びの比ではありません。

それでも人は人と交わらなければ生きて行けません。

だから交わり方を学ばなくてはならないし、生きている間は絶えず学んで行かなくてはなりません。

夢、希望、期待などは裏切りや絶望の裏返し、モノは裏切らず、コトは裏切るという物事の中で、何事もなかったように生きてゆくことを目指すほかはなさそうです。

 

全国に木造建築を造りたいと念願している私は、「歩く期待オジサン」みたいなものですが、それはもう毎日、「不安の海」を泳いでいるようです。

でもこの頃は、不安と裏切りこそ生きている妙味、と思えるようになりました。

若い頃はこのような分別はありませんでしたが、同時に、あの不安の海に漕ぎ出していた頃の、切ないまでの息苦しさこそ、珠玉のような日々だった、と述懐しています。

分別とは衰えと同意語ではないか、とも。

 

さて、また不安の海に漕ぎ出だすとしようか…。(ヨッコラショ!)

 

 

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2014年6月4日