日本のすがた・かたち

2019年6月10日
「絶学」

「う~ん、少し考えたね。」
書家の小野田雪堂はそういって私を見た。
眼は優しかったが、厳しい一言だと思った。
23年前、静岡市伊勢丹で個展をする際に書いた好みの禅語だった。

雪堂翁にいわれてから、この書が妙に気になり、開催初日から販売済みの赤シールを貼って今日まで残しておいた一幅でした。

 

昨日、梅雨時ながら虫干しも兼ね、初めて茶室の床の間に掛けてみました。
その折の記憶が懐かしく甦り、ご縁のあった方たちも既に鬼籍に入り、時の移ろいの速さに思いを致しました。

「絶学」は中国の唐代初期の禅僧永嘉玄覚禅師(禅宗六祖慧能の直弟子 675~713)の『証道歌』にある一句です。

 

       君見ずや 絶学無為の閑道人 妄想を除かず真を求めず
     無明の実性即仏性 幻化の空身即法身

 

雪堂翁は、「書家の書家臭い書」や「味噌の味噌臭き味噌」をよしとされず、禅にいう「悟りの悟り臭きは上悟りにあらず」と同じ境涯を生きていました。
学んだ法も、修した道も少しもちらつかせず、ましてや悟りだの迷いだの、禅だの神仏だの、その影ですら感じさせませんでした。それは馬鹿なのか、利巧なのか、偉いのか、仏なのか、凡夫なのか、さっぱり見当がつかないものでした。妄想を除かず真を求めず、唯日々の行いに囚われることなく淡々と…。

 

人間は、人と違う己を見せようと行動する生きもののようです。奇をてらった言動や、奇なる服装に身を包むと、何か特殊な人間になり、優越感に浸ることができるといわれます。

私はこの書に対った時、一瞬、筆が留まりました。その刹那、上手く書いてやろうとした気の迷いが生じました。書家でもない建築家の書とはこれほど凄いものだ、という優越感というか慢心が確かに顔をもたげたのでした。雪堂翁はそこを見逃さなかったのです。

久し振りに「絶学」に対い、未だに「オレという建築家の設計は別格だ!」という自分臭さに会いました。
「未だまだ、未熟者めが!」。優しい雪堂翁の声が聴こえていました。

 

 

本紙 60×88センチ

 

 

2019年6月10日

2019年5月28日
未明の妄想

何年も前から未明に夢を見るようになりました。
夢の大半は建築に関することで、特に構想を練っている時にそれは出てきます。

ある茶室の計画を立てている時、昨日まで悶々としてまとまらなかったプランが朝起きる前に、スケッチブックに描いている夢を見ました。その後、その夢のような設計図がまとまり、茶室も完成しました。

以来、この未明の設計夢は重なり、幾つもの設計と共に建物の完成をみています。
仕事ばかりではないそれらの夢は、いつも見るわけではないのですが、不思議に私をリードしているようになりました。
中には色気のある情景も出てきて、それがまた何ともいえない雰囲気が醸し出され、今では夢は現実で現実は夢では、と思うようになっています。

 

20年ほど前、鳥獣戯画で有名な鎌倉時代の高僧・明恵上人(1173~1232)の寺、京都・栂尾の高山寺を訪ねたことがあり、その折、中興の祖であり、実質的な開山でもあった上人が、自分の見た夢を長年にわたって記した『夢記』を読みました。フロイトやユングに強い関心を持ったのもその頃でした。
夢については、
1.夢は、特定の意識的状況に対する無意識の反応である。
2.夢は、意識と無意識の葛藤から生じた有様を示す。
3.夢は、意識態度の変容をめざす無意識の働きを表している。
4.夢は、意識状況との関係の見えてこない無意識の過程を示す。
と、いうようなことも知りました。

 

―薄暗い空間に、ボーっと情景が浮かんできて、ある塊が現れてきます。
私はその塊のすがた・かたちをスケッチブックに描いて行きます。
やがて目覚め、そのスケッチに寸法と色合いを与えて行く…。

何時の間にか私の設計手段となった夢との連動です。
この連動は私にとっては妄想であり、独り「未明の妄想」と名付け、悦に入っています。

 

この先は妄想が深化し、変態へと繋がって行くのではないかと思っています。
妄想・変態こそ我が人生。
いよいよ佳境に入ってきたようです。

「想念は未分化されて、空間に融けて在る。思い描くものは、すがた・かたちと成る」
そう思う昨今です。

 

       妄想や 渦巻く未明 五月尽

 

写真:高山寺金堂への石段
下 「紙本著色明恵上人像」(高山寺蔵、国宝)

 

 

 

 

2019年5月28日

2019年5月15日
山本玄峰老師

久し振りに禅寺「龍澤寺(りゅうたくじ)」を訪ねました。
私の所から約20分の距離で、もう30年も前から「散歩コースA」に指定している心休まる境内です。

令和に入って急に思い立ったのは、山本玄峰(げんぽう)老師のお墓参りでした。
老師のお墓は庫裏の西側にあり、土手を掘って横穴式の石室を造ったもので、死期を悟った老師は石室に入り、断食をして坐禅の姿のまま遷化されたという場所です。

 

老師は、和歌山県東牟婁郡四村(現・田辺市本宮町)に生まれ、産まれた後旅館の前に盥に入れて捨てられ、幸いに拾われたといいます。
十代前半の頃から筏流しなど肉体労働に従事し、17歳で結婚して家を継ぎましたが、1887年に目を患い失明状態となったため、家督を譲り四国八十八箇所の霊場巡りに旅立ち、素足で巡礼をしていたという逸話が残ります。

7回目の遍路の途上、高知県の雪蹊寺の門前で行き倒れとなり、当時の住職山本太玄和尚に助けられ、寺男となりました。その勤勉振りを買った太玄和尚に入門を勧められて修行を始め、後にその養子になり雪蹊寺の住職となりました。

その後、全国をまわって修行を続け、龍澤寺、松蔭寺、瑞雲寺など臨済宗中興の祖白隠慧鶴の古刹を再興しました。1926年からはアメリカ、イギリス、ドイツ、インドなど諸外国への伝導を開始します。帰国後に推薦を受け臨済宗妙心寺派の管長となり、後に龍澤寺の住職となりました。

1945年、終戦の詔勅にある「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言し、天皇を国家の「象徴」と定義する(象徴天皇制)よう発案し、当時の鈴木貫太郎首相の相談役なども努めたといいます。
1961年6月3日、静岡県三島市の龍沢寺自坊で96歳をもって断食、遷化し、葬儀には外遊中の池田勇人首相の名代として大平正芳官房長官などが列席しました。弟子に中川宗淵、田中清玄などがいました。
眼を患っていたといいますが、豪傑で高格の人柄で多くの人々を教化し、禅風を興した昭和の傑僧といわれます。

 

私は近くに住み、寺の後を継いだ中川宗淵老師とご縁があり、それが岐阜の瑞龍寺の設計監理の任に就くことに繋がるなど、龍澤寺とは不思議なご縁を感じ、お会いしたことのない老師に何故か親しみを感じていました。

 

私の生まれる年の八月十五日、昭和天皇による玉音放送がありました。その勅語と共に、象徴天皇制を発案した玄峰老師の慧眼こそ、今日の天皇文化を確たるものとした大きな力となったひとつといえます。
令和元年に即位された天皇から、上皇のなされた国民の象徴としての務めを果たして行く、とのお言葉がありました。
私は人類史上、千三百年も続き、世界に類のない天皇の存在を思う時、和を好む日本人の優れた智慧が結晶した文化の塊を思います。

 

文化とは時空を超えて伝えられ、育まれて行くものです。

石室の前には、老師頑張って生前履かれていたゴム草履が揃えられていました。お参りを始めてから30年間変わらない佇まいです。
山門を出る時、外国人の雲水と合掌による挨拶を交わしました。

先人が遺された日本のすがた・かたちに包まれながら、帰路につきました。
空は蒼く澄み渡り、鳥の声が送ってくれました。

 

写真:山本玄峰老師のお墓(般若窟)
下 龍澤寺僧堂前景

 

 

 

2019年5月15日

2019年5月1日
令和の天皇陛下

今日は5月1日、令和の時代の幕開けです。
昨日は大晦日と新年を迎える気分を味わっていました。

日本列島は大祭りで、時代を皆なで跨ぐような明るい雰囲気が横溢していました。
公平感の溢れる世相と、多様性のある国民の意識は、他の国にはないことだと思います。
その根源は、「皇室」という我が国特有の文化形態にあるようです。

 

紀元前の天照大神から続く皇統は、初代神武天皇から数えて126代といわれます。この歴史的時間の継承は稀有な出来事で、民族史上謎ともいわれています。
三大日本文化は「神道」、「日本仏教」、「皇室」とされますが、その中で最も普遍性の高い文化は「皇室」、つまり天皇という世界に類のない存在に他なりません。

 

天皇には権力、財産、市民権、投票権など、国民の有する私的所有権はなく、過去には権力者となったこともありますが、軍隊も持たず、城壁に守られた住まいもなく、つまり「日本の象徴」という特異なすがたで存在しています。

私は、ここに日本民族の優れた叡智があるとみています。
列島に暮らしてきた先祖たちは、公平という概念を創出し、平等という意識こそが権力を生む根源であり、争いの元となることを知っていました。
平等は、一見正しいように思えますが、実はこの平等意識こそ誤解による闘争を招いているものです。全ての人間は平等にはなり得ない、一人ひとりに差や格差があることが自然である、として、人間の個としての存在を認め合い補い合う、という考え方です。

権力を保持しない、という選択は、天皇の存在を神格化するところまで行きましたが、今日に至り、天皇は「国民の幸せを祈り、世界の平和を願う」という、世界にも稀な存在となったわけです。

 

平成12年11月10日第50回全国植樹祭に天皇陛下がお手植えされたヒメシャラと皇后陛下がお手植えされたヤマボウシを、皇太子殿下(新天皇)がお手入れされました。
その折、静岡のホテルでレセプションがあり、ワイングラスを持たれた皇太子殿下から、「お野立所」の建築について「良い仕事を成されましたね」と声をかけて頂き、「天皇陛下と皇太子殿下にご使用頂き感激しております」と伝えました。

その折の高揚感は、何とも説明の難しいものでした。
ただ、一心に建築家を目指してきて良かった、と思ったことを覚えています。
あれから7年、皇太子は今日、新天皇に即位されました。

 

平成から令和へ。
この二日間の出来事は、文化としての象徴のすがた・かたちを世界に披歴し、日本の叡智を垣間見せたことと思います。

今日、南米ベネズエラでは独裁的なマドゥロ大統領に対抗し、軍の一部がクーデターに動き、国民に蜂起を呼びかけているという昨今。権力の悪しき連鎖は世界中に充ち満ちています。

天皇は国王ではなく、我が国の国の象徴です。
我が国の平和は、象徴天皇が牽引しているといっても過言ではありません。

天皇とは日本文化のひとつの結晶体。子々孫々に伝えて行きたい麗しい和の心です。

 

 

写真:平成11年5月30日 第50回全国植樹祭 天城湯ヶ島町(現伊豆市)
下 平成24年11月10日 第36回全国育樹祭 皇太子(令和の天皇陛下)によるお手入れの儀

 

 

2019年5月1日

2019年4月21日
ルパン三世ー逝く

 

平成31年はこの五月から令和元年となります。
平成最後の春までには馴染みのある諸氏が、駆け込むように亡くなりました。
小池一夫、モンキー・パンチ、ケーシー高峰、内田裕也、森山加代子、内田正人、堺屋太一、堀文子、梅原猛氏等々。
いずれも私の生きてきた時間に刺激を与え、輝かせてくれた人たちです。

 

中でも、愛読書『子連れ狼』や『ルパン三世』を世に出した小池一夫、モンキー・パンチには親しみを持っていました。

なぜなのか、と考えてみると、登場するキャラクターが半端なく魅力的で、主役は弱点をもち、ライバルは欠点有り、という絶妙な関係性を持っていたことによります。
つい最近も量子コンピュータを題材にした『ルパン三世』を見たばかりでした。

『子連れ狼』も『ルパン三世』も、今を生きる人間にとって、何が大切で何が希望や夢となるのか、がテーマにあり、時代と共にヒットする魅力に溢れていました。

 

建築の設計に生きている私は、小池一夫の金言に気を留めることもあり、それらは万人に共通する禅語の趣すらありました。
―82年間生きてきて、いちばん幸せだったのは、人を好きになる、人を愛するという感情だ。成功することや、何かを成し遂げるという感情が、人を愛するという感情に勝ることはなかった。死ぬまで誰かを心の底から愛せるということは本当に幸せなことだなと思う。この世に生きている価値があると思える。―(2018・5月)

私もこの言に同感で、人間の幸せは人を好きになっているか否かにかかり、しかも、私の場合はそれに「建築の設計」が道連れのように寄り添っているように思います。

何よりも「好きになること」、これに勝る幸せはないようです。

 

私が現在、最も関心をもっているキャラクターは「ドラえもんと野比のび太」です。
もう既に五十年、付き合いの長い愛すべきロボットと人の子です。
原作者の藤子・F・不二雄は天才建築家だと思っています。

 

画像:「金曜ロードショー ルパン三世 ルパンVS複製人間」より

 

 

 

2019年4月21日

2019年4月11日
いずれ「日本原人」も

4月11日のニュースによると、「アジアで第5の原人 6万年前、比ルソン島に」の見出しで、以下の記事が掲載されている。

― フィリピン・ルソン島の洞窟で見つかった歯などの化石が新種の原人と分かったとフランス国立自然史博物館などのチームが10日付の英科学誌ネイチャーに発表した。現生人類のホモ・サピエンス(新人)が到達する前にいたと考えられ、アジアでは北京原人などに続き5種類目となる。化石は5万年前から6万7千年前のものと推定。アジアではこれまでに北京原人のほか、ジャワ原人、インドネシアのフロレス原人、台湾沖で化石が見つかった「澎湖人」が知られている。
初期人類に詳しい国立科学博物館の海部陽介人類史研究グループ長は「現生人類のように進歩的な面と、チンパンジーなどにみられる原始的な面が混じっている。ルソン原人と呼んでいいと思う。アジアに多様な人類がいたことが示された」と話している。(産経ニュース 2019.4.11 07:07ライフ 科学)―

 

15年ほど前から、私は、400万年前にアフリカから発生した新人類(ホモ・サピエンス)が世界に広がった、という説に疑問を持ち、現在に至っています。
今では、「世界各地に人類は発生していた」というのが最も信じられる説で、気象学、遺伝学、血液学、言語学、考古学などから、最古の日本人は20万年前から日本列島に住んでいたとされます。

その中で、興味をひくのが石器で、日本産の黒曜石が後期旧石器時代から新石器時代にかけて、日本海を渡り、ロシアのマラヤガバニ遺跡まで約1000キロ運ばれていた事実が判明しています。その他にも大陸に渡った黒曜石は各地に遺り、日本人が海外に進出してことが立証されています。
また、風俗、血液型、白血病抗原体などからも日本人が大陸に渡っていたことが判り、既に北京原人や今回発見されたルソン原人などが生きた時代に、既に日本原人が活躍していたことに違いありません。
いずれ火山活動や酸性の土壌により、骨などの化石が出土しない列島の風土からも、確たる証拠が見つかるのではないかと思っています。

 

縄文時代から始まった太古の日本人への興味は、私を飽かすことなく、世界各地で出土報道がある度にワクワクしています。
未だに日本に原ニホンザルが生息することもあり、日本原人(飛騨原人)が日本列島にいたとの情報を、今かと待っているところです。いずれ原日本人も発見されることでしょう。

 

天皇即位の大嘗祭は、縄文時代の生活を遺しているといわれます。
その祖先は旧石器時代からの風習を営々と今日に伝えています。
令和の世、私たちは歴史を繋いで生きています。

https://www.sankei.com/life/news/190411/lif1904110007-n1.html

 

写真:原人の暮らし、火を道具として使い始めた。
(模型、愛知県犬山市・リトルワールド)

 

 

2019年4月11日

2019年4月4日
「令和」・心寄せ合う想像力

「令和」が新元号に決まりました。
この二文字の典拠は万葉集の第5巻からといいます。

「梅花の歌三十二首并せて序(あわせてじょ)」
「時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑く(き よく)風和ぎ(かぜ やわらぎ)、梅は鏡前の粉(こ)を披き(ひらき)、蘭は珮後(はいご)の香を薫す(かおらす)」。
「時あたかも新春の好き月(よきつき)、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉(おしろい)のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただよわせている」。

 

政府が元号の典拠を万葉集に求めたことは誠に好ましく、快哉という他はありません。
発表された途端に、号外を求め人は殺到し、万葉本は特需でこれまた売れまくっているといいます。

 

中学生の頃の愛読書は『万葉集』と『唐詩選』でした。
人の情愛は万葉集から、人生の彷徨は唐詩選から影響を受け、特に和歌の詠嘆の魅力に虜になったことを覚えています。
「恋ひ恋ひと 逢える時だに美しき 言尽くしてよ 長くと思わば」石川坂上郎女(いしかわさかのうえのいらつめ)の歌に魅され、良く歌ったものです。

 

元号は天皇崩御の際に代わりますが、令和は退位のための制定のため、お祭り気分で発表を待つことができました。あたかも時は満開の桜の候。

 

やれ、キリストの生誕から始まる西暦が現代的で良い、封建的な元号はIT時代に相応しくない、安倍首相は天皇を政治利用しているからけしからん、などなど煩いこと至極です。
まあ、何事も人のすることに難癖を付けなければ済まない輩がいることは承知していますが、そのクレーマーたちが、アナログの「号外」に殺到した様には、苦笑する他はありません。

 

お祭り気分で結構。新しい時代に立ち会えることは稀なこと。ましてや「令和」の意味は「心寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味」です。令(うるわ)しく平和に生きる日本人の原点をそこに見るような思いがします。

 

私は元号があることにより、国家という存在を確認し、天皇を戴く日本の文化の深遠さを改めて思います。日本人に生まれて本当に良かったと思います。

 

元号が改まると、私の心境も再生する思いです。5月1日が待ち遠しくあります。
私にとっての令和は「心寄せあう想像力」と解しています。

 

                何もかも新たなるかな天地も 煌めき代わる令和の朝陽に

 

 

写真:平成31年4月1日AM7:00の富士山

 

 

2019年4月4日

2019年3月25日
平成改元

この頃、新しい仕事場を得たせいか気合が入り、愛用のT定規が活躍しています。
高校入学時に親に買ってもらった製図用具一式は、その後の59年間常に道連れでした。
その間に描いた設計図は三千枚以上と思われます。

 

パソコンによるCADソフトで図面は描いていますし、幼稚園レベルの落描きが写真レベルのクオリティーになる、AI技術による「GauGAN」なるものの存在も知ってはいるのですが、どうも性に合わず、何時の間にか手描きの設計図に戻っています。私の建築設計のスタイルは、T定規なくしては成り立たないようです。

 

なぜ今、このことを書くことになったかというと、平成の年も後僅かで、新しい元号の年になることによります。
31年前に昭和から平成に元号が変わりました。私は不惑の年を迎えていましたが、その頃は不惑どころか超多惑の頃で、海に小舟で漕ぎ出したような不安の人生真っただ中で、T定規だけが頼りという有様でした。
ただ、元号が変わったことにより、なぜか気持ちが一新し、不惑感に近づき、改めて我が国の伝統文化の深遠さに思いを致すことになったのでした。

 

「象徴天皇の源流」と位置付けられ、権力と権威が分離したとされるのが、9世紀前半の平安初期、第52代嵯峨天皇の頃といわれます。以後、天皇は権力を持たず、時間と空間を抽象的に支配することになりますが、その「時間の支配」を表すのが元号といわれます。
鎌倉から室町時代にかけ、足利義満などにより幕府の将軍や実力者が改元し、権力の源泉とした時期もありましたが、そのような混乱期も天皇は存在し、皇位継承が続いてきました。「奇跡の制度」といわれる所以です。

 

元号は天皇と一体で、645年の大化から1400年近く続いてきた日本独特の制度は世界に類をみないもので、現在の一世一元制は、平安初期の桓武天皇から淳和天皇までの4代にわたる治世もそれぞれ単一元号であり、中国・明代以後の伝統とされますが、わが国の歴史は古く、先人の叡智が創作した「時間の支配」は営々と続いています。

 

現代の独裁者国家の行く末を考えれば、過去の歴史がその答えを出しています。勿論、独裁国家では我が国の天皇のような存在は機能しないと思いますが、独裁者の末路は無残としかいいようがないものです。権力を持った分だけ悲惨な結末になるというのが歴史の事実です。

我が国の天皇には権力や財力は存在せず、有るのは時間と空間を抽象的に支配する機能、つまり象徴という権威のみ。しかし、この「権威のみ」というシステムこそ、世界に誇る日本システムであり、日本文化の大きな塊なのです。

 

改元は甦りへの祈りのように思います。誰でもが今日から明日へと甦生を願います。私にとっての5月は、何もかもが一新する月になりそうです。

くたびれたT定規が「まだまだ使えるぞ!」、といっているようです。

   平成も 終わりぬ開く 桜かな

 

 

 

2019年3月25日

2019年3月17日
黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)

天皇陛下が4月30日に退位することを皇居・宮中三殿に報告する祭祀(さいし)「奉告(ほうこく)の儀」が12日午前、執り行われました。
陛下の退位に向けた一連の儀式が始まり、4月30日の国事行為「退位礼正殿(せいでん)の儀」まで9の儀式が行われます。

この日の祭祀は午前10時ごろに始まり、陛下は、「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」という天皇のみが身につける束帯をまとい、厳かな表情で、皇祖天照大神(あまてらすおおみかみ)をまつる賢所(かしこどころ)の回廊を進まれ、内陣で、退位することと、その期日が4月30日であることを報告する「御告文(おつげぶみ)」を読み上げられ、歴代天皇と皇族がまつられている皇霊殿、国中の神々がまつられている神殿でも同様の御告文を読み上げられたそうです。

午後には天皇陛下が、伊勢神宮や初代とされる神武天皇、孝明、明治、大正、昭和の各天皇の陵(みささぎ)(墓)に使いを派遣する「勅使(ちょくし)発遣(はっけん)の儀」も御所で行われました。
天皇の退位は、憲政史上初めてで、宮内庁は平成の即位の儀式や、通常の宮中祭祀などを参考に儀式を立案したといわれます。これから退位の期日までの儀式はいずれも先祖への拝礼となります。

3月26日 神武天皇山陵(奈良県橿原市)に天皇陛下が拝礼する
4月18日 伊勢神宮(三重県伊勢市)に天皇陛下が拝礼する
4月23日 昭和天皇山陵(東京都八王子市)に天皇陛下が拝礼する

4月30日には、退位礼正殿の儀(皇居・宮殿)。天皇陛下の立場として最後に行う儀式で、国事行為として、三権の長や閣僚、地方代表らも参列し、首相が国民代表の辞を述べ、陛下が最後の「おことば」を述べます。

 

黄櫨染御袍が天皇陛下の服として定められたのは、弘仁11年(820年)とされます。陛下が退位を黄櫨染御袍の束帯をもって皇祖天照大神に報告されることは、我が国の永い歴史と共に先祖が営々と文化を繋ぎ、育んできたことを実感させます。

 

「身を浄め、威を正し、先祖に報告する」、その儀礼、儀式を営々と未来に託してきた日本人。その象徴たる天皇の皇室。私は二千数百年の歳月を凝縮した日本文化の大きな塊をここに見ます。

 

幾多の困難を乗り越えて伝え来た先人の叡智が平成の御代から新たに引き継がれます。
昭和、平成、新たに改元される年。この時代に生きあわせたことを嬉しく思います。

 

天皇は、日本人にとって再生のシンボルです。

 

写真:今上天皇即位式 黄櫨染御袍のお姿 (Webより)

2019年3月17日

2019年3月11日
皇統命(すめらみこと)

2019年4月30日に今上天皇が生前退位され、翌日5月1日には皇太子が新天皇に即位されます。平成の次の新元号が2019年4月1日に発表されますが、いよいよ日本の新しい時代の幕開けとなります。
初代神武天皇から126代目の新天皇の誕生は、昭和、平成、そして新しい年号と共に、改めて日本の歴史を訊ねることになります。

 

山本健造が遺した「飛騨の口碑」によると、ホモサピエンス(新人類)が地上で暮らし始めた頃、日本列島にも先祖がいて、その始原は飛騨の淡山(乗鞍岳・飛騨大地)としています。
私は、我が国の木造建築の始原の調査から「飛騨の口碑」に興味を持ち、考古学や遺伝学、歴史学を頼りに山本原日本人説を日本国史の柱としてきました。その説は、発掘されている石器から、20万年から37万年前から日本列島には原日本人が住んでいた、というもので、信にたるものでした。

 

山本健造の最大の功績は、肇国の歴史を明らかにしたことで、「古事記」や「日本書紀」の国史を時の権力者の都合の良いように改編したところを糺し、記紀の紀元前1世紀頃の出来事を神話仕立てにした理由などを挙げています。
中でも紀元1世紀頃初代神武天皇(サヌ命)が即位される際に皇統命の辞令「位板」(くらいいた)が大和のサヌ命に授けられ、晴れて神武天皇として即位されたと口碑に遺ることを明らかにし、歴代の天皇が即位式に臨む際、岐阜県高山市にある位山の「イチイの木(一位の木)」によって製作された笏木(しゃくぎ)を使われてきたことの意義を説いています。(笏木とは神社の神主や斎主が持ち儀式を行う薄い木の板のこと)

 

飛騨位山の一位の木で製作される笏が、歴代の天皇の即位式に献上されてきたのには理由があります。紀元前3~5世紀頃から続く、35代のヒルメムチ命(天照大神)などの皇統一族の亡骸が埋葬されている御陵がその位山であるということです。39代ヤマトイワハレ命(サヌ命・神武天皇)も天の岩戸といわれる大岩に祀られているといわれます。

私は、日本文化の大きな塊は神道、日本仏教、皇室、茶の湯にあると思っています。
その皇室に営々と伝わる笏木は飛騨の位山に生える常緑針葉樹の一位の木は、我が国の真の歴史をものがたり、皇統命・皇室のふるさとが飛騨であることを伝えています。

 

即位に合わせて行う大嘗祭は、2019年11月14日から15日にかけて挙行されるといいます。
今回の大嘗宮は少し仕様を変えるようですが、東に萱葺きの「悠紀殿」、西に「主基殿」が木肌を剥かない櫟(クヌギ)で造られ、周りに芝垣が巡らされます。殿の中にはそれぞれ北側の「室」と南側の「堂」に分かれ,北側には「褥(しとね)」「衾(ふすま)」と呼ばれる寝所が像置かれ、東側に天照大神が降臨する神座と対向する天皇の座がしつらえられ、そこで神人共寝共食の秘儀が行われるといいます。

この大嘗宮を造るところの木を切ったり、草を刈ったりするのは悠紀国、主基国のいわば神人(じんにん)といわれる祭祀・神役集団とされ、この度の建築は、皇居東御苑の旧江戸城本丸跡の広芝に、大手建設会社5社が共同で担当しています。
ITが席捲する現代にあって、木の国ならではの文化といえます。

 

木の文化は,先人の叡智が結晶しリアルに躍動しています。

 

 

写真:平成の大嘗祭で皇居・東御苑に造営された大嘗宮

 

 

2019年3月11日