日本のすがた・かたち

2019年8月19日
知足者常富

以前インドやタイ、ネパール、ブータンを訪ねたことがあります。
中国や韓国にも渡りました。歴史的建造物の見聞が主な目的でしたが、やはりその国の文化に惹かれ多くの文物に触れてきました。
何時も帰りの飛行機の中で思うことは、日本の素晴らしさでした。

我が国は、渡航したどの国よりも安全で、美味しい食事が摂れ、働く機会も沢山あります。
物乞いもなく、挑戦する気さえあれば国や金融機関が資金を用意し、提供してくれる人もいます。
私は29歳の時、建築家として独立しましたが、無償で資金援助をして下さった方たちがいました。そのお蔭で今日があるのですが、その根底にある精神は戦後の高度成長期にあって、後の世代を育てる思いだったに違いありません。国民が皆で励まし合って生きていたことを感じます。
現在でも日本中で挑戦する志を持っている人は、世界最強といわれるほど多いと思います。

 

政治は現代社会の問題点を洗い出し、未来に向けて国の意思を調整する役割を担います。
野党は問題点を追求し、改善を促すものですが、昨今の野党は政権与党の失点を狙うことのみの感があり、聞くに堪えない演説の羅列に終わっています。政治家は内政ばかりか、外交戦略を構築し、実行できる人物を上とします。
我が国で、一次政権を担った民主党が崩壊したのも、財政金融や外交政策に疎かったためといわれます。私の住いする選挙区で、当時、政界のプリンスといわれた政治家は、宿敵の自民党に入り、凋落の一途です。

 

現在、我が国の未来を悲観し、否定的に語る人が少なくありません。
聞いてみると、今より良い生活をしたいのに、できないのは政治が悪い。お金が貯まらない。
自衛の武器調達よりも年金や子育て支援に税金を使え。もっともっと、と。

 

日本はGDPの世界ランキングで第3位の大国で、此れは戦後に国造りを目指した人たちの恩恵の上に成り立っています。現在、韓国が反日政策をもって攻め立てていますが、丁寧な無視をもって対応が良策だと思います。日本の土台はそう簡単に崩れることはなく、却ってこのような事態になって、如何に日本がモノづくり強国であることがはっきりしたはずです。

 

俯き加減の日本をいう人たちがいますが、脚下照顧、よく足元を見れば脚は地球に立ち、そこから広がる大地や海は無限にあり、宇宙の果てまで…。
考えてみれば日本人の優れた特質は、地球上のどこの国よりも穏やかで、諍いの少ないことが挙げられます。地政学的にもそれはいえそうです。

 

「知足者常富」(足るを知るものは常に富む)。
先人の戒語です。

私も先人のように、次代のため少しでもお役にたてるよう、暮らして行きたいと思っています。

 

写真:設計室のマスコット「山の形顔大型土偶」縄文後期(千葉県佐倉市出土)

 

 

 

2019年8月19日

2019年8月15日
体験の力

台風10号によって今夏は出かけることなく過ごすことになりました。
楽しみの縄文遺跡調査旅行も、悶々とした設計生活に変わり、熱中症厳重警戒と共に引きこもり症候群を発症するに至りました。
自然の猛威の下には何人も逆らえません。

 

先日、銀行マンたちと将来について語る機会がありました。彼らの関心事は専らAIによる失業対策で、そう遠くない内に、銀行員の三分の一がリストラされるとのことで、どうしたら良いのか、彼らにとっては人生の最大事がAI対策のようでした。

 

私たち設計の分野でも、AIの脅威はご多聞にもれず、設計要員はデータを入力する者が主流を占めることになると話しました。現に今、パソコンによる設計が大半を占め、鉛筆を舐めながら設計をする人は皆無に等しく、もしいたら、まるで旧石器時代の遺物のような存在になっているはずです。
必要なデータを入力すれば、瞬時に複数の設計案が出力され、しかもパース動画とともに資金計画や返済計画まで出てきます。つまり、これから考えてみます、というような時間は無駄で必要悪とされ、いずれAIが設計界を席巻すること必定です。

 

さて、私はどのように話したのか…。
「現在のAIは、対象の生きている人を殺傷して良いか否かの判断までできるようになっていて、既に宇宙空間による戦闘の主役に躍り出ている」。
「人間にとって代わる分野は広く、多くの人間が必要とされなくなる」。
「美術、芸術の分野でも、人間の想像を遥かに超える創造域を確保する」。
「特に偏差値能力の高い人たちは必要とされなくなる可能性が大」。
「音楽の分野でも、人間はAIの自動演奏について行けない」。
「知的職業に求められる能力は「基礎的能力」、「学歴的能力」、「職業的能力」、「対人的能力」、「組織的能力」の5つというが、「基礎的能力」「学歴的能力」は既にAIの後塵を拝している」。
「残る「職業的能力」、「対人的能力」で勝負する他はないだろう」。

 

話しをしながら私は「手に得て心に応ず」という禅語を思い浮かべていました。
それは、データや学問に依らない、体験しか信に値しない、という先賢の先鋭的な立場です。
設計の仕事ばかりかこれは全てにいえることで、身体で体験したことが己の心に応ずることこそ、他に対応できる最も有力な力となるとの教えです。

現在の設計分野ではパソコンがなければ設計できない人が大半のようです。つまり体験のない空想の世界から逃れることは不可で、造り方などは無視で、工事金とともに施工者のいいなりの状態といえます。自らが設計したものの、価格は、材料は、どの様に造り、どれくらいの時間を要し、造り方は適切か、などなど、これこそが設計監理者の仕事のはずです。

 

私は、若い建築家に「設計監理の人を目指せ!」といっています。そして己にその言葉を向けています。AIを使いこなし、多くの人のためになる生活を目指せ、と。それを可能にするには、「体験の力」が必要となる、と。

 

日本人の繊細な能力を最も必要とする時代が、そこまで来ています。

 

写真:刻々と色に染まる酔芙蓉

 

 

 

2019年8月15日

2019年8月3日
舟を設計してから

 

この十日ばかりの間に2人の訃報が届きました。
長い間親しくして頂いた方たちで、私より若い年齢の突然の身罷りは切ない限りです。

人の命は短くとも長くとも儚いもので、「一炊の夢の如し」、といわれます。まるで生を受けた瞬間から寿命という蝋燭に火が点り、蝋が溶けて命が尽きる一生の様です。

人間も齢七十を過ぎると、何時しか後何年生きるかという計算をするようになるといいます。私もご他聞にもれず、この頃は後10年とかあわよくば20年とか、と考えるようになりました。
二十一歳の時、高圧事故に遭って三途の川を渡りかけたのに、奇跡的に戻り、それから五十年余が経ちます。精神はともかく肉体を持っている宿命で、常に死と隣り合わせの日々を重ねてきたように思います。

永らえば、縁ある人との別れも多くなり、出会いが少なくなりなるは必然のことです。
古人曰く、生涯に深い縁のある人の数は、肉親も入れて両手両足の20指に満たないとしています。つまり、自分の一生を振り返ってみて、誰との交流が人生にとって重要だったか、と振り返った時、この地球上に76億人もがいるのに、生涯で20人の人との関わり合いで生きているとは不思議な気がします。

宇宙的規模から観れば、陸地に生息する人間は微細な生きもので、都市という塊はカビが地表にへばりついているように見えます。そのカビの菌が睦み合い、いがみ合い、殺し合っているのが人の世の常です。人類皆兄弟!と唱えても中々上手く運ばないのがカビ菌の宿命のようです。

 

人は人を殺め、動植物の命を絶ってわが命を保っています。肉食は罪悪という人も、草木の命を絶って己の命を永らえています。血の滴るようなステーキを食べている者がクジラやイルカの保護を訴えていることに違和感を覚えます。悲しくとも、人間とは他者を殺めてでしか生きられない生きものということになります。

縁ある人が亡くなる度にこのようなことを回想し、そして今在ることに感謝します。

そしてこの目まぐるしく動く多用の日々。
仕事を中心として毎日が充実している日常は、考えてみれば有難いことで、やることの連続によって三途の川を渡ることの想像も何時しか薄れています。近い内に必ず訪れることですが、漠然ながら,来るまでは命はあるから、忙しくて川を渡る舟の設計に手が回らないと…。

 

何時の日か三途の渡し舟を設計し、舟大工に造らせてから渡りたいと思っています。

             知己や往く 浄土に開け 蓮の華

 

 

2019年8月3日

2019年7月23日
ボンヤリ、妄想

折々、ただボンヤリして時を過ごします。
四十半ばから身に付いた習慣です。

三十歳の頃、仕事に瑕疵が生じ、賠償責任を問われました。
私にとっては大きな事件で自分の無力を、イヤというほど知らされました。
その事が縁で、禅僧太田洞水老師の座禅会に通うようになりました。

毎週日曜日の未明からの座禅は「只管打坐」、ただ壁に向かって座るというものでした。二年近くで会から離れましたが、その折に身に付いたことは、折々、静かにただボンヤリ座ることでした。
初めは気持ちを落ち着かせ、集中しようとしていましたが、その内、ボンヤリと想いを巡らせるようになりました。何時の間にか、座るという行動に成果を求めなくなっていたのです。

それが思いがけずに、空想を描き、設計意図を確実なものにできる仕組みというか、装置のようなものに変化していたようで、ある日そのことに気がつきました。
「ただ座る!」老師が常にいわれていたことが身に沁みました。

 

今日もボンヤリして、仕事のこと、京アニメビル放火、参院選、対韓国、闘病の人、会いたい人のことなどに妄想を巡らせると、何時の間にか、それらは雲散霧消。
正しいと思うことなども消え、確実に「今ココ」を生きている実感だけが残りました。

良寛さんは私と同じ歳の頃、遺偈に「人間の是非、看破に飽たり」と詠んでいます。
私はというと、「未だ看破に飽かず」というところです。
これから益々設計に気合いを入れ、人類が宝物のように思ってくれる建築を造って行きたいと思っています。

それにはなるべく人との出会いを少なくし、淡交ではなく、濃厚な関係を保ちながら「今ココ」を生き、彼の岸へ。これが至高の時の流れ方・・・。

そう思っても世の中はままならず。今年は長雨で陽が出ず、漬けた梅にカビが発生!
直ぐに養生して事なきを得たが、トホッ。

 

「時は過ぎて行く」。
人生はボンヤリとしていられないようです。

          妄想や華の色香にチャネリング

 

写真:前庭の蓮のつぼみ

 

2019年7月23日

2019年7月16日
ラフスケッチ

日本のアニメは世界一といわれています。
中でも、高畑勲の『アルプスの少女ハイジ』、『火垂るの墓』や、宮崎駿の『千と千尋の神隠し』や『風のナウシカ』は、アニメーション映画というより絵画芸術の領域にあるものと思っていました。

二人の活動は同一線状にあり、日本アニメ界の巨匠であることは知っていましたが、先年、高畑の『かぐや姫の物語』を観て、これを世に出した高畑勲に関心を持っていました。

この作品の表現方法は今までのアニメ的なものでなく、日頃、私たちが建築設計で用いているラフスケッチを、そのまま作品にしているような感がありました。
そして、その向こうには日本人よる伝統的な精神が垣間見られ、「鳥獣戯画」や絵巻類を彷彿させる奥行きも感じさせました。

 

国立近代美術館での「高畑勲展」を観て、私の中にストンと落ち、納得の感がありました。これは日本人にしか作ることのできない日本のアニメだと。
高畑勲はそれを「かぐや姫の物語」で成し遂げたと思いました。つまり高畑のアニメは、日本人による日本のアニメを創出した改革者というべきものでした。

 

日本人が日本の建築を造る、とはどういうことか、と、いつも考えてきた私は、高畑のいう日本のアニメと同じことだと思い、改めて日本人にしか造ることのできない建築のことに思いを馳せました。

日本人にしか造ることのできない建築は、木造建築で、その中でも「茶室」が最上位だと思う私は、自然の木材を使い、それに適応する道具を用い、日本文化を包含した茶の湯の儀礼・儀式を展開する空間・・・。それはまた、茶味にかなうという美意識の結晶した建築です。

少し詳しくいえば、「茶室」は内部空間と外部空間によって構成され、造営する者の思想や哲学、それに美的意識を基とした建物を造ります。小間席などは僅か三畳ほどの建築空間です。外部空間の露地も同じことですが、そのすがたを構成するものは、木や草、土や石といった自然界を構成する素材で、それぞれを加工し、組み立てるための道具を創り、高度な技術を駆使して造ります。その全ては、ただ茶の湯にいう「茶事」を催すためのものです。

 

高畑勲はアニメで思想が語れる、としていまが、建築は思想そのものであり、言葉による説明を必要としないところがあります。中でも茶室はその思想性の密度が最も高い建築で、「無言の佇まい」といえるものです。

『かぐや姫の物語』を見ると、アニメも建築もラフスケッチを描く頃が一番エネルギッシュで、思想が横溢する時のようです。「高畑勲展」を観て私はその意を強くしました。そして、手で描くスケッチこそが私の思想そのものだと改めて思いました。

 

高畑勲はロシアのアニメーション映画監督である、ノルシュテインの影響を強く受けていることを知りました。所持していた「霧の中のハリネズミ」が展観されていました。
極限まで完成されたラフスケッチでした。

 

 

写真:上『かぐや姫の物語』(展カタログより)
下『霧の中のハリネズミ』(同)

 

 

2019年7月16日

2019年7月7日
京の北山杉

我が国は国土の70%が森林で覆われています。
その森林の中で木と呼称されるものはおよそ500~1500種(数え方は色々)で、中でも建築用材として使われているものは約20種余といわれています。

材種は杉、檜、松、檜葉、栂、樅、椹、桂、栗、楢、桐、欅、榀、槐、桜、栃、楓、椿、槙、樫、ブナ、タモ、そして黒柿や材の希少部分などの銘木類で、先人は建物を造る際、適材適所に材を配し使ってきました。
最近では遺跡の発掘などから、1万2千年前の縄文時代より前の旧石器時代から木材を利用した生活があったことが判っていますが、現在に至っても、列島に住む日本人は木と共に暮らし、生きている感があります。

 

縄文から日本の木造建築は様々な変遷を経てきていますが、中でも特別な意識と価値で今日に至ったものに茶室建築(数寄屋建築)があります。
思うに、日本の茶室と呼ばれる建築は世界に類例がなく、先人が工夫に工夫を重ね、美意識に包んだ趣向を総動員して造営した稀有な建築といえます。

 

茶室とは、茶の湯という儀礼・儀式を秘め、神道、日本仏教、皇室という日本文化を発現したもので、特に小間席という極小空間は、日本人の特性が美しく結晶したエネルギーのかたちといっても過言になりません。
そして日本人が好む銘木です。
世界の植物は30万種。木は10万種とも。その中で日本の茶室建築において最も象徴的な木材は京都の北山で作られてきた「北山杉」という銘木にとどめをさします。

室町時代から始まり、茶聖千利休が活躍した桃山に花開いた茶室の構成材として、先人が美意識を洗練させながら明治から昭和初期にかけて創作した杉の磨き丸太こそ、令和に至る象徴的な木といえます。

 

先日久し振りに、その京都北山を訪ね六度目となるご神木を拝してきました。
同行した若者たちも樹齢六百年の元祖北山杉の威容に圧倒されたようでした。

現代は、何でもスマホ、インターネット頼りの暮らしとなりました。私も何時の間にか命の次に大事なのはスマホになり、洪水のように押し寄せる情報に振り回されている自分の姿を自嘲気味に見ています。
北山の杉木立や大樹に会って、「知る」という日常ではなくて、「体験」という時間軸が復活した思いがしました。北山杉の磨き丸太の得もいわれぬ触感が、一週間経った今でも残ります。

「北山杉」は茶の湯という我が国固有の文化が生み出した美材。
私は、今回の北山行きで、この美材を頼り改めて日本の木造建築を創り続けたいと思いました。

案内して頂いたのは創業から160年、京都上立売の「松文商店」の吉村栄二社長。
既に30年ほどお世話になっていますが、今回も吉村社長から多くを学びました。

 

きっと、日本列島の森林を頼り、まちづくりや環境問題に対応できる日が来ると思っています。

 

写真:300年前の北山台杉と吉村社長と 撮影:H-OIKAWA

 

 

2019年7月7日

2019年6月23日
仁和寺・観音堂

40年も前になりますが、国宝「色絵藤花文茶壺」(MOA美術館所蔵)を観たのがきっかけでした。
当時、色絵磁器に興味を持ち、友人の窯で有田物を作り精力的に古九谷や古伊万里を観て回ったいた頃でした。
そして「藤壷」の作者野々村仁清に興味を持ち色々調べることになりました。

野々村仁清(生没年不詳)は丹波国桑田郡野々村(現、京都府北桑田郡美山町)に生まれ、本名を清右衛門といい、瀬戸で修業を積み、京の御室に窯を開きました。「仁清」という号は、仁和寺の仁と清右衛門の清を合わせたものといいます。後に後水尾院を中心にした宮廷サロンとの仲介役をなした金森宗和とのかかわりの中で、「藤壺」を始め優美な陶器を多く生み出しました。

 

そして三度目となる今回の仁和寺行きです。
目的は観音堂修復落慶記念特別内拝でした。堂内の障壁画と仏像・全三十三体を実見できる最後の機会ではないか、と思い立ったが吉日で、直ぐに出かけました。

観音堂は本瓦葺の入母屋造で重要文化財です。堂内には内陣・外陣があり、内陣には極彩色で描かれた観音像などがあります。仁和寺の創建は888年で、応仁の乱で焼失し、1641年から1645年にかけて再建されましたが、6年に及んだ今回の修復まで実に374年間公開されませんでした。

堂内に安置された燦然と輝く本尊千手観音菩薩立像、二十八部衆立像など全三十三体、その両脇に不動明王、降三世明王、色鮮やかな立像中でもひと際大きく、躍動感あふれた風神・雷神像は圧巻でした。私は須弥壇周囲を囲む壁画を飽かず観ていました。
また久し振りに茶室「遼廓亭(りょうかくてい)」、「飛濤亭(ひとうてい)」を訪ねました。

私が最も好ましいとする茶室は、犬山の「如庵」ですが、「遼廓亭」はその写しともいえる形態で、共に「二畳半台目向切り下座床」の席で、鱗板(うろこいた)が特色です。国宝「如庵」は織田信長の実弟・有楽斎が建仁寺塔頭正伝永源院に造営し、現在は犬山市にあります。先年、「如庵」で講演をした折、詳細に拝見することができ、その特色は「遼廓亭」に継承されたことを実感しました。「遼廓亭」は天保年間(1830年~1844年)に仁和寺門前にあった絵師・尾形光琳邸から移したといわれるもので、これらも重要文化財です。五重の塔を拝しながら懐かしく思い、また次代に継承するには、と考えました。

 

文化財の修復や修理の改修計画は「何を変えるのか」、「何を遺すのか」のせめぎ合いに尽きます。それには構成材料を知り、劣化の状態を知り、この後何年を継承できるのかを計ることになります。他に自然環境や気象条件などもその判断材料に入ります。
名建築の改修に関わる者は、如何にしてこの文化財の継承を担うのか、を自らに問うことが必要となります。
私はその判断基準は「各々の美意識にかかる」。そう思っています。

当日朝、奇しくも京都駅で帰京される上皇ご夫妻をお見送りしました。

仁和寺、天皇家、有楽、仁清、光琳、観音堂、千手観音、岡田茂吉、藤壷…。

また戻ってから、「藤壷」を世に展観された茂吉翁の夢を見るようになりました。何か不思議なご縁を感じています。

 

写真:上 仁和寺仁王門より中門を望む
中 修復成った観音堂
下 観音堂内千手観音の御手に結ばれた綱

 

 

 

2019年6月23日

2019年6月10日
「絶学」

「う~ん、少し考えたね。」
書家の小野田雪堂はそういって私を見た。
眼は優しかったが、厳しい一言だと思った。
23年前、静岡市伊勢丹で個展をする際に書いた好みの禅語だった。

雪堂翁にいわれてから、この書が妙に気になり、開催初日から販売済みの赤シールを貼って今日まで残しておいた一幅でした。

 

昨日、梅雨時ながら虫干しも兼ね、初めて茶室の床の間に掛けてみました。
その折の記憶が懐かしく甦り、ご縁のあった方たちも既に鬼籍に入り、時の移ろいの速さに思いを致しました。

「絶学」は中国の唐代初期の禅僧永嘉玄覚禅師(禅宗六祖慧能の直弟子 675~713)の『証道歌』にある一句です。

 

       君見ずや 絶学無為の閑道人 妄想を除かず真を求めず
     無明の実性即仏性 幻化の空身即法身

 

雪堂翁は、「書家の書家臭い書」や「味噌の味噌臭き味噌」をよしとされず、禅にいう「悟りの悟り臭きは上悟りにあらず」と同じ境涯を生きていました。
学んだ法も、修した道も少しもちらつかせず、ましてや悟りだの迷いだの、禅だの神仏だの、その影ですら感じさせませんでした。それは馬鹿なのか、利巧なのか、偉いのか、仏なのか、凡夫なのか、さっぱり見当がつかないものでした。妄想を除かず真を求めず、唯日々の行いに囚われることなく淡々と…。

 

人間は、人と違う己を見せようと行動する生きもののようです。奇をてらった言動や、奇なる服装に身を包むと、何か特殊な人間になり、優越感に浸ることができるといわれます。

私はこの書に対った時、一瞬、筆が留まりました。その刹那、上手く書いてやろうとした気の迷いが生じました。書家でもない建築家の書とはこれほど凄いものだ、という優越感というか慢心が確かに顔をもたげたのでした。雪堂翁はそこを見逃さなかったのです。

久し振りに「絶学」に対い、未だに「オレという建築家の設計は別格だ!」という自分臭さに会いました。
「未だまだ、未熟者めが!」。優しい雪堂翁の声が聴こえていました。

 

 

本紙 60×88センチ

 

 

2019年6月10日

2019年5月28日
未明の妄想

何年も前から未明に夢を見るようになりました。
夢の大半は建築に関することで、特に構想を練っている時にそれは出てきます。

ある茶室の計画を立てている時、昨日まで悶々としてまとまらなかったプランが朝起きる前に、スケッチブックに描いている夢を見ました。その後、その夢のような設計図がまとまり、茶室も完成しました。

以来、この未明の設計夢は重なり、幾つもの設計と共に建物の完成をみています。
仕事ばかりではないそれらの夢は、いつも見るわけではないのですが、不思議に私をリードしているようになりました。
中には色気のある情景も出てきて、それがまた何ともいえない雰囲気が醸し出され、今では夢は現実で現実は夢では、と思うようになっています。

 

20年ほど前、鳥獣戯画で有名な鎌倉時代の高僧・明恵上人(1173~1232)の寺、京都・栂尾の高山寺を訪ねたことがあり、その折、中興の祖であり、実質的な開山でもあった上人が、自分の見た夢を長年にわたって記した『夢記』を読みました。フロイトやユングに強い関心を持ったのもその頃でした。
夢については、
1.夢は、特定の意識的状況に対する無意識の反応である。
2.夢は、意識と無意識の葛藤から生じた有様を示す。
3.夢は、意識態度の変容をめざす無意識の働きを表している。
4.夢は、意識状況との関係の見えてこない無意識の過程を示す。
と、いうようなことも知りました。

 

―薄暗い空間に、ボーっと情景が浮かんできて、ある塊が現れてきます。
私はその塊のすがた・かたちをスケッチブックに描いて行きます。
やがて目覚め、そのスケッチに寸法と色合いを与えて行く…。

何時の間にか私の設計手段となった夢との連動です。
この連動は私にとっては妄想であり、独り「未明の妄想」と名付け、悦に入っています。

 

この先は妄想が深化し、変態へと繋がって行くのではないかと思っています。
妄想・変態こそ我が人生。
いよいよ佳境に入ってきたようです。

「想念は未分化されて、空間に融けて在る。思い描くものは、すがた・かたちと成る」
そう思う昨今です。

 

       妄想や 渦巻く未明 五月尽

 

写真:高山寺金堂への石段
下 「紙本著色明恵上人像」(高山寺蔵、国宝)

 

 

 

 

2019年5月28日

2019年5月15日
山本玄峰老師

久し振りに禅寺「龍澤寺(りゅうたくじ)」を訪ねました。
私の所から約20分の距離で、もう30年も前から「散歩コースA」に指定している心休まる境内です。

令和に入って急に思い立ったのは、山本玄峰(げんぽう)老師のお墓参りでした。
老師のお墓は庫裏の西側にあり、土手を掘って横穴式の石室を造ったもので、死期を悟った老師は石室に入り、断食をして坐禅の姿のまま遷化されたという場所です。

 

老師は、和歌山県東牟婁郡四村(現・田辺市本宮町)に生まれ、産まれた後旅館の前に盥に入れて捨てられ、幸いに拾われたといいます。
十代前半の頃から筏流しなど肉体労働に従事し、17歳で結婚して家を継ぎましたが、1887年に目を患い失明状態となったため、家督を譲り四国八十八箇所の霊場巡りに旅立ち、素足で巡礼をしていたという逸話が残ります。

7回目の遍路の途上、高知県の雪蹊寺の門前で行き倒れとなり、当時の住職山本太玄和尚に助けられ、寺男となりました。その勤勉振りを買った太玄和尚に入門を勧められて修行を始め、後にその養子になり雪蹊寺の住職となりました。

その後、全国をまわって修行を続け、龍澤寺、松蔭寺、瑞雲寺など臨済宗中興の祖白隠慧鶴の古刹を再興しました。1926年からはアメリカ、イギリス、ドイツ、インドなど諸外国への伝導を開始します。帰国後に推薦を受け臨済宗妙心寺派の管長となり、後に龍澤寺の住職となりました。

1945年、終戦の詔勅にある「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言し、天皇を国家の「象徴」と定義する(象徴天皇制)よう発案し、当時の鈴木貫太郎首相の相談役なども努めたといいます。
1961年6月3日、静岡県三島市の龍沢寺自坊で96歳をもって断食、遷化し、葬儀には外遊中の池田勇人首相の名代として大平正芳官房長官などが列席しました。弟子に中川宗淵、田中清玄などがいました。
眼を患っていたといいますが、豪傑で高格の人柄で多くの人々を教化し、禅風を興した昭和の傑僧といわれます。

 

私は近くに住み、寺の後を継いだ中川宗淵老師とご縁があり、それが岐阜の瑞龍寺の設計監理の任に就くことに繋がるなど、龍澤寺とは不思議なご縁を感じ、お会いしたことのない老師に何故か親しみを感じていました。

 

私の生まれる年の八月十五日、昭和天皇による玉音放送がありました。その勅語と共に、象徴天皇制を発案した玄峰老師の慧眼こそ、今日の天皇文化を確たるものとした大きな力となったひとつといえます。
令和元年に即位された天皇から、上皇のなされた国民の象徴としての務めを果たして行く、とのお言葉がありました。
私は人類史上、千三百年も続き、世界に類のない天皇の存在を思う時、和を好む日本人の優れた智慧が結晶した文化の塊を思います。

 

文化とは時空を超えて伝えられ、育まれて行くものです。

石室の前には、老師頑張って生前履かれていたゴム草履が揃えられていました。お参りを始めてから30年間変わらない佇まいです。
山門を出る時、外国人の雲水と合掌による挨拶を交わしました。

先人が遺された日本のすがた・かたちに包まれながら、帰路につきました。
空は蒼く澄み渡り、鳥の声が送ってくれました。

 

写真:山本玄峰老師のお墓(般若窟)
下 龍澤寺僧堂前景

 

 

 

2019年5月15日