日本のすがた・かたち

2017年12月13日
まちづくり

時々まちづくりについて談義することがあります。
私の話は何時ものことですが、「百年計画」について、なります。
一世紀をかけてまちを作り変えようというものです。
この話を何度も聞いているひとは、少し食傷気味となっているようですが、また話が進むと思いの他興味を示し、身を乗り出してきます。

大筋は人が集まりビジネスや政治の中心は、高層ビル群を造り、その外周にはモノづくりや教育施設などを造り、その外周には住居群を造り、その外側には農場を造り、その外側には里山を造り、林業などが営める地域、その外側には自然林を残す、というものです。

そしてモノづくりや教育などの施設とその外周は木造建築として、地元の木材を使用するという構想です。
外周の自然の森から中心を成すビル群に至るまでの建築や施設を、木造化しようというものです。

これからの時代は、テクノロジー化が進む速度が速くなり、あっという間に人工知能が世を席捲することになるは必定です。人間の働き方や活動の仕方も激変し、もしかするとロボットに使われる仕事が多くなると思われます。

建築は人間の生活環境と文化をかたちづくるものですがあるため、時代の流れには逆らえず、多分、無機質の箱の中にテクノロジーを駆使したイミテーション空間を創作し、その中で暮らすことを余儀なくされるはずです。

仮想の電子空間で拡張される仮想現実の中で暮らし、電子機器に囲まれ、見るものは仮想でイミテーション、聞くものは機械音、匂いもイミテーション、食べ物の味も人工物、肌に触れるものも石化原料衣料となり、居住する空間は外気と隔絶し、24時間換気をし、密閉状態にして空気清浄機と加湿器を使う・・・。そして人間もイミテーション類に。
これは何処か異常の生活環境ではないのか、・・・。人間を含めた生きものの生活環境はこのようになって行って良いのか・・・。

私の話のモデルは徳川家康が江戸の町づくりをしたことに遡ります。
政治の中心である江戸城からスパイラス状に広がっていた江戸の町は、先の戦争で壊滅してしまいましたが、生きものを中心とした構想は、これからの時代に大きな示唆を与えているように思います。
そのまちづくりを担ったものは、約三億八千年前にこの地球上に出現し進化を遂げた「木」でした。

私は生きている限り、木の建築の話をして行こうと思っています。

 

     それぞれに 見える景色や 富士の嶺

 

 

2017年12月13日

2017年11月25日
道しるベ

40年も前のことですが、寺社建築の設計をし始めた頃、本尊である仏像に関心を持ちました。寺の本堂は、ご本尊のお館だと思うようになっていた頃のことでした。
それならば本尊さんを良く知らなければならない、それが動機でした。

改めて、子供の頃に見ていた家の菩提寺本尊を拝観してから、縁ある毎に寺院を始め美術館などを巡り、韓国、中国、インド、ネパール、ブータンでもお参りするようになりました。

その一連の行脚の中で印象に残ったのが日本の仏師のものでした。
中でも平安期の定朝、鎌倉期の運慶、快慶、江戸期の円空の仏像は、脳裏に焼き付いていました。
定朝作の平等院「阿弥陀如来」、運慶作の願成就院「毘沙門天」、快慶作の浄土寺「重源上人」、円空作の一連の「不動明王」。
この中で実見していなかったのが、伊豆にある「毘沙門天」でした。

先日、東博で「運慶展」があり、逢ってきました。
圧巻でした。

四人の仏師の共通していたところは、「願心」でした。
仏像を拝観し、願心の高さこそ仏の姿に近づく道しるベであったと確信しました。

四十半ばの頃、仏像は巨大な木造建築だと思うようになりました。
彼ら仏師は、歴史に残る建築家であり大棟梁であると思うに至ったのです。

核心となる本尊はお舎利であり、経典など仏像の内蔵物に象徴されているもので、それを秘める仏の造形は建築の造形に他ならないと。

彼らは皆、大勢の弟子や協力者を擁し、巨大なプロジェクトを実現させています。その道標はやはり願心であり、願う心の大きさが大願成就への大道を歩むエネルギーと化したはずです。

私は、運慶の「毘沙門天」を拝し、暫しその気高さと美しさに圧倒されていました。

帰路、新幹線の夜窓から相模の海を見ていて、運慶の振る鑿も私の持つ鉛筆も、同じものではないかと思いました。
さあ、また明日から10Bの鉛筆に願心をこめて・・・。

 

    願心の 限りを尽くし もの造り

 

写真:運慶作「毘沙門天立像」静岡・願成就院

 

 

2017年11月25日

2017年11月21日
建築と庭

我が国の現代建築は西洋建築に倣うものが大半といえます。
また、「建築は人を感動させるもの」でなくてはならない、という考え方があります。

感動するという建築を見聞きすると、西洋諸国の特色に沿ったものが大半といえます。
この「感動の建築」は著名人の発言の影響のようですが、私にはその感動させる手法に違和感があり、本質的な方向が違うと思うところがあります。

感動するという人たちは異口同音に、大きな内部空間や、そこに外光の取り入れ方に感動を覚えるといいます。空間と光の演出に酔うわけです。
室内へ光の導入をするための必須条件は、閉ざされた空間があることです。
巨大な窓をステンドグラスなどで演出することなどは、閉塞空間でなければなりません。つまり壁で囲い、外部と隔絶させることで可能となる空間こそ、西洋建築の特色ということになります。

この精神の方向は、自然と人間を隔離し、外部と一線を画すところにあります。
国境が山や川にあり、侵略が繰り返し行われた歴史と、気候風土により防護し守らなければ生存していけない民族と国土が横たわっているからといえます。
これを象徴しているものが「壁」です。

ヨーロッパ諸国でいうところの壁は厚みが2メートルはあり、彼らの壁とは自然との隔絶や国境と同じ意味を持つものです。
私は西欧・西アジア諸国の建築を「閉ざされた建築」として捉えています。

日本建築にはこの閉ざし隔絶するという考え方はありませんでした。内部空間を開放し、外光と一体となるところが特色といえるところで、特に木造建築には閉塞感というものがなく、むしろ外部と連結して構成されています。

空間といえば、内部は用途に応じ装飾は僅かで、外部に設えた庭を抱え込み、借景などの遠景を取り込んで巨大な自然空間を造り上げてきたといえます。
この開放的精神性は、自然と一体であるという考え方に依るところが大きく、人間は自然界の一部であり、自然と同居し調和して生活して行くというものです。

国境は海にあり、侵略は船か飛行体によることになり、他民族が歩いて大挙移動してくるということは考えられません。
これらを象徴しているのが日本の「壁」で、一般的な厚みは精々15センチ弱です。

これは外部との隔絶を目的とせず、外敵の侵入を防ぐ目的は少なく、唯一閉鎖的な状況を必要とするときは台風などの災害時であり、自然災害列島に生息するために備える必要からのものです。
私は日本の建築を「開かれた建築」として捉えています。

 

現代建築には「庇」がなく、豆腐を切ったようなデザインといわれます。設計が簡単で楽だということに繋がりますが、昨今の建築の主流は内部空間の演出を重要視する傾向にあるようです。
それを感動的な建築として評価する時代になってきていますが、私は日本本来の建築的感動は外部空間との一体の所に存在すると見ています。
「建築と庭」によって渾然一体となり、醸し出される感動は、閉塞空間の中に構成された演出とは異なる美意識が働き、起きる感動だと思います。

 

世をあげてのグローバル化とユニバーサルデザイン化、バリアフリー化について、私は思うところがあります。安全と効率と利益だけでは、何処かが歪んで行くのではないかと。

自然界の一員、気候風土、災害列島、森林の保有、文化財建築の再生、後進の育成の重要性について、「建築と庭」は重要なメッセージを発しています。

先賢は、美しいものごとに触れることによって人間の情操は高まると、それをものごとの判断の基にしたらいいと教えています。

私は建築と庭の調和の美しさの中で、人々が健やかに暮せるようにと念じながら設計に対っています。
また若者たちに、日本建築の美しさと、庭も設計できるように、と伝えているところです。

 

写真: 「開かれた建築」 熱海・「水晶殿」
(庭は一都三県で伊豆大島までの広さの相模の海)

 

 

2017年11月21日

2017年11月8日
ものには魂が宿る

タイには四回渡っています。

古都チェンマイを中心として北部の名所旧跡を歩き、幾つかの遺跡を訪ねた折のこと。
以前会ったことがある、と思う人たちを見かけました。それも二人や三人ではなく、何人もの人たちでした。
そのようなことがあるはずはないと思いながら、顔や仕草を見て、ハットして、その都度、もしかしたら前世で会っていたか、親戚だったか、それとも同じ遺伝子を濃く持っているのか、と思いました。

また出会う場所や風景でも、何時か見たことがあり、懐かしさが湧き、この懐かしさは何処からくるのかと思ったものでした。
この懐かしい人や場所の感覚は、ネパールやブータンでも遭遇しています。

 

以前から日本人の祖先について関心があり、特に縄文人に関する発掘や遺伝研究の情報があると、自分のルーツを考え、自説を立てるようにしてきました。
この懐かしい感覚に遭遇してから、私の中では、縄文人の渡来説が優位となっていました。

ところが数年前、縄文人の大陸渡航説や遺伝子解明の論文を読んで、祖先は渡来ばかりではなく、逆に渡航による遺伝子の拡散ではないかと考えるようになりました。

現在では、縄文人は元々日本列島に棲んでいて、そこに大陸や半島、東南アジア、北方からの渡来人と混血しているが、すでに航海技術を持っていた原日本人が各地に渡っていて、原日本人の子孫が世界に広がっていたと考えるようになっています。

それを考えるようになったひとつに「木の建築」があります。

中国雲南省やラオス、タイ、ミャンマー、カンボジア、ネパール、ブータンに遺る木造建築の共通性は意外に多く、森林を持つ地域の人たちは互いに木工技術を身に着けていたとしても、意匠や構造の類似性には驚かされるものがあります。

それぞれの国に自生する樹木は、それを使用させ、建物を造るための道具を創作させ、技術を開発させ、優れたところを継承させ、不具合のことは改良させ、それを営々と1万年余も継続させてきました。
その継続の類似性は、人間の類似性ではないかと考えるようになりました。

 

昨今の建築は新建材が多用され、木造とは名ばかりの木質系、鉄骨系、プラスチック系、コンクリート系の建築へと変容しています。
建築は人間の生活環境と文化をかたちづくる基本的要件ですので、現代建築はその変容が必然とされるものといえますが、木の建築を欲する人たちが絶えないことも事実です。

生きもののヒトが心から感動し、感激するものは自然の景観と時が創り出す情景といえます。木の建築は感動や感激の度合いは僅かながらでも、時間の経過とともに育まれる情景があります。
そこに育まれてきたものは私たちの精神構造に大きな影響を与えています。それは「ものには魂が宿る」という考え方に現れています。

 

何時の時代になっても日本人は木の建築を欲するはずです。
それは、人間が自然界に生息する生きものの一部であると本能的に解っているからだと思います。
日本の国土から森林が失せない限りですが・・・。

 

写真: ブータンの木造寺院

 

 

 

2017年11月8日

2017年10月30日
学問の楽しさ

齢70も過ぎると人生の輪郭がおぼろげながら見えてきます。
あの時から、あの頃から、と時間を辿りながら、自分の生きてきた原点のようなところに戻ってみることが多くなるようです。
私が思う原点は中学卒業の頃と、18歳で単身社会に出た時のことです。

 

身体が弱く育った私は家の生業である漁師になれず、かといって中卒では使いものにならないという状況でした。
漁師の家は半農半漁で生計を立てていましたが、魚や干物、野菜は余るほどありましたが、現金が乏しい生活でした。勉強も好きでないこともあり高校も半ば諦めていました。これからのことを考えると不安で、海で遊んでばかりいたことを覚えています。

 

中学二年の春、姉が突然、父に申し出をしました。
「私が奉公に出て仕送りをするから、弟だけは高校にやって。」、と。
30人余の同級生の中で進学したのは10名程でした。経済的な理由から進学できないのが殆どでした。

「手に職を付けるところならいい。」。父の言でした。
水泳と卓球ばかりしていたせいで、成績はクラス中下位で、通信簿を持って帰るのが辛かったのを覚えています。

 

工業高校の建築科を卒業したこともあり、横浜の建設会社に就職することになりました。
ギターと木刀と風呂敷に小さな柳李を包んだものを持って家を出る朝、父が「卑怯なまねはするな。」、と一言。駅まで送ってきた母が切符を渡しながら、「お前を信じているからね。」、と一言。
以来、様々な出会いと別れを繰り返し、今日に至っています。

 

現在思うことは、20代に学問の楽しさに出会ったことでした。
学問は利益や効率の追求のためにするものではなく、自分の人生を充足させるためのもので、それが好きな生き方ができるということに通ずることを知りました。
やがて平均点の高い者には興味を覚えず、むしろ分野に偏り高度に深化し勤しんでいる人物に興味を覚えるようになりました。それが人間の本来の姿に一番近いと思ったからです。

 

誰でもが人生の原点を持っているはずですが、私の出発点は父母、姉のような気がしています。三人の言葉は私の真言として何時も蘇ってきます。

 

   故郷は 海山の幸人の幸 波の果てにも 未知の国有る

 

写真:コレカノが作り贈ってくれた「お守り」

 

 

 

2017年10月30日

2017年10月18日
伴侶って?

少し前の話になりますが、知り合いの女性のお宅が半焼した折の話です。
台所から火が出て、入浴中の浴室に煙が入ってきて火災に気づき、パニックになりそのまま外に逃げたそうです。
その時は一糸まとわず、とっさに携帯だけを持って出たとのことでした。

話を聞いた私はその時の姿を想像し、どの折どのような展開になったのかを思って一緒に笑いましたが、その後の様子を聞いてみると携帯を持って逃げたことが正解だったとわかりました。

もしそれが現在の私だったら、逃げる時にはスマホを持って、ということになるはずで、見られるのは一時の恥、スマホ焼失は当分のダメージとなることは必定です。
私にとってもスマホの存在価値は高く、既に人生の伴侶といえるようです。

 

昨今は、電車に乗ると乗客の約八割はスマホをいじり、後の人はスマホを持ったまま寝ているか、目を閉じて音楽でも聴いているのか、車窓から景色を見ている人は見かけません。満員電車でもスマホ片手の乗客がいます。これらの電車の乗客スタイルは20年ほど前には見なかった光景です。

人間は好奇心旺盛で、特に便利なものには関心が高く、それがどのような副作用があろうと構わないところがあり、便利さと好奇心を刺激できれば商売になるというのが古今東西の歴史でもあります。
世をあげてのAIの開発志向や宇宙開発も、言わば人間の本能である好奇心と我欲の為せる業で、止めようがないことといえます。
このまま時代が進んで行くとどうなるのか、と考えてみることがあります。

 

衆院選真っただ中ですが、誰しもが安全、安心、効率、効果、利益などを目指すと声高に叫んでいます。一方、そこには危険、不安、無駄、汚染、権益、利権なども同居しています。
結局のところ生きものは、なるべく自然環境の中で、自然と対立することなく順応し、声高に叫ぶことなく、人間も自然を構成している一員として生きることを目指すことが肝要のように思います。
生活環境の要である建築を造る仕事をしている私は、特に日本人は足元にある自然素材で、それも供給無限の木を使った建築を多くすべきだと声高に叫んでいますが・・・。

なるべく自然の神秘に浴し、自然のエネルギーを使い、自然の食物を食べ、自然の美しさに感動する。人類はこれを目標に生きるようになればと思います。

そういう私も便利なものには勝てず、この頃は己の言行不一致に悩んでいます。

 

そこで都々逸。

「伴侶って・・・」 昔ゃ夫か妻だったのに 今じゃスマホか紙オムツ

 

写真:Webより転載

2017年10月18日

2017年10月10日
伝統のなかに

この一週間ほどは様々な行事や催しへの参加でした。
建築調査、納骨、観能、茶会、陶芸展、禅寺参りなどで目まぐるしい毎日でした。
この間、常に頭から離れなかったのが「伝統」の二文字でした。

伝統とは古いものではなく、今まで積み重ねてきたものに新たなものを加えて行く、というのが私の伝統観です。つまり、古のものを再現して行く行動は継承であり、伝統とは常に新しいものだという考え方です。

今秋は全国各地でイベント花盛り、祭事は目白押しです。
その中で百年以上続いている催事を選別してみると、意外なことがわかります。

継承され続いてきたものは、人間の生き死に関わる祭事が殆どで、他のイベントものや文化祭的なものは一過性の娯楽といっても過言になりません。
つまり永く継承されてきたものは神仏への奉納、奉献の宗教祭事ということになります。

古建築の調査は先人の生活環境と文化をかたちづくる基本的要件の調査ということで、その時代から今日に至るまでの人間の生死に関わる調査研究が背後にあります。

四十九日法要と納骨儀式は日本仏教が連綿と伝えてきた宗教仏事であり、能は天才世阿弥が考案した夢幻能の亡霊を主人公とした神事。茶会は茶聖千利休から約四百五十年を数える神、仏を基にした茶事。陶芸は日本人の生活習慣の伝統的発露の催事。禅僧との会話は生死への疑事。
いずれも明日より、「今ココ」をどう生きるか、という自問に応える時間というものです。

知能を持った人間がこの世に出現してからの永遠のテーマは、「自分はどのように生きるか」に尽きるように思います。

20代で建築家を目指して五十年。この頃、自分で考えている建築家像には追いつかないことをおぼろげながら認めている裡なる自分がいます。
そしてまた脳裏に浮かぶ狂歌。
「人の世はないものねだりに暇つぶし・・・」

一連の行動で楽しいと思ったのは若者たちとの親交でした。
時の移ろいは、次代を担う若者たちとの交流で昇華すると再認識した一週間でした。

さあ、今日からまた鉛筆をナメナメ図面に対おうか、と老骨に鞭打って、と。

 

写真:10月7日 MOA美術館・薪能と芸妓おどり(熱海ネット新聞)

 

 

2017年10月10日

2017年10月2日
首長、文化財をみがく

 

先日、熱海市内にある国の登録有形文化財の「東山荘」を皆さんで磨いてきました。

私は講師で参加し、主催は「名建築・みがき隊」(及川隊長)ですが、第4回目に熱海市の斉藤栄市長が参加しました。
私の知る限りでは、全国の首長が自ら文化財を磨くのは初めてだと思います。
斉藤市長はみがき隊のメンバーに交じって、東山荘本館一階の座敷の床の間周りを担当しました。
背の高い市長は、普段手入れができないところなどを磨き、文化財の手入れをしながら、先人が遺してくれた遺徳を実感されたようでした。

建築は時代と共に変わり、時代を反映しながら造られます。それは長く残るものは残り、数十年で壊されるものもあります。
昨今は、特にその壊さなければならないような建築が多くなり、少子高齢化と共に我が国は廃屋列島の様相を呈してきています。

そのような時代に遭遇していて、今、住いを始めとする建造物の在り様に警鐘を鳴らす動きが出てきています。
「新たに造らず、在るものを生かす」という動きです。
30年も経つと産業廃棄物になるようなものは極力造らず、先人の遺してくれた優れた建造物を見直し、それを活かし保存し、後に伝えて行こうというものです。

この考え方は理に適っていると思いますが、これは簡単なようで、実はどのようにしたら良いのか、今ひとつわからないというのが実態です。
そこで「みがき隊」の出動となるわけです。

私が建築家を目指す若者に伝えているのは「手入れ・みがき方」です。
建築は完成した瞬間から、古く朽ちて行く定めにあるので、それを永らえるようにする術を持っているべき、ということです。
それは先人の叡智を継承し、文化を伝達することだと話しています。もしそれを実感したかったら自分自身の手足で建築をみがくことだと。
「素材を知り、汚れ風化の程度を知り、そして磨き加減を知る」。この三原則を伝えています。水と湯だけでシンプルにと。

今回のみがき隊に参加された熱海市長は、この実感を得て文化財の保存活用行政に邁進されるはずです。全国の文化財の保存活用がこのような首長先導で行われるようになれば、と思った東山荘・みがき隊でした。

 

写真:上 斉藤市長・東山荘床の間をみがく

下 みがき隊グッズのエプロン姿で、市長と及川隊長(熱海市長室)

 

名建築・みがき隊HP
http://migaki-tai.org/

 

2017年10月2日

2017年9月19日
じっと このまま

最近のマスコミを賑わしているのが、ミサイルと不倫報道です。
これについては関係者以外お手上げで、ミサイルを飛ばすものは勝手で、不倫も勝手です。どちらもお任せとしかいいようがありません。

数日間、日本列島に災害をもたらした台風や地震と同じような災難とはいえませんが、何しろミサイルと不倫は誰が何といおうと止められません。何しろ人間に備わっている我欲につける薬はなく、ましてや性欲は本能が促していることです。

 

それじゃ、どうするのか。
まあ、いってしまえば、国家も家庭も、可能な限りの備えをすることに尽きるようです。
つまり、遭う時には遭うしかなく、そうなるかならないかに囚われ過ぎ、自分を見失うことの方が問題というわけです。

かの良寛さんは、地震に遭った時、「災難に遭う時は災難に遭うがよく。死ぬる時は死ぬるがよく」と説き、災難を逃れる方法はただひとつ遭った時にはそれをそのまま受け入れると諭しています。
一休禅師のいう「心配するな。なるようになる」。この心境のようです。

 

建築を造って行く際、地震や台風に遭い、長年の完成に向けた努力も水泡に帰すことがあります。私は設計が始まると祈りを始めます。この計画が、この設計した建築が無事に完成しますように、と願う祈りです。
普段は神仏に頼らないのに、避けられず遭遇することには頭を垂れ心の裡で祈ります。幾つもの設計をしてきましたが、この習慣に変わりはありません。
目に見えない大いなるものに願い縋るのは人間の普通の姿なのだと思います。

 

現代は極端にプレハブ化し、工業製品化した建築が多くなり、貪欲な効率化や利益化を追求している時代です。また建築も人工知能化してゆくことは必然ですし、何処まで行くのか興味のあるところです。もしかしたら人間は設計という行為を放棄せざるを得ないことになるのでは、と思います。

まあ、考えてみると現代の設計工学はパソコン任せの分野で、私のような10Bの鉛筆をナメナメという、変態的設計姿勢は流行らくなりました。良寛さんではありませんが、それをそのまま受け入れて生きる以外にないようです。

 

自分が生きている時間は自分が作ってきたことですから、喧嘩することもなく、相手のいることの半分は、自分が勝手にしてきたことですし、恨んでも仕方のないことです。

ミサイルが飛んでくるのか、不倫がなくなるのか、興味が湧くところですが、私は今、鉛筆を削り、現在取り組んでいる造営計画に対いながら、アズナブールの「じっとこのまま」を口ずさみ、(鉛筆は火を噴くミサイルだ!)などと、世迷言を呟いています。

 

 

2017年9月19日

2017年9月6日
伝えかし


 

   人の世は 無いものねだりに暇つぶし 色と欲とに 妬きもち絡めて

この狂歌は、40歳も過ぎた頃、人の生涯というものはこのようなものだ、として詠んだものです。

今にして思えば厄年などといわれ、人生の危機に直面していた頃でした。
先ずは人を信じることができなくなり、飲食に節なく、事務所の経営も行き詰まり、荒れた生活の真っただ中でした。あれほどあった生きる自信も失せて、内心はボロボロでした。
20年前の感電事故に遭った時にあの世に往っていれば良かった、と思ったものでした。
それを乗り越えることができたのが、一冊の本の出版でした。

上梓した『建築相聞歌』は、建築家を目指してきた10年余の証のようなもので、自分はどのように考え、生きてきたのか、折々書きとめておいたメモをまとめたものでした。
本の出版は初めてでした。
意外なことでしたが、編集者と作業を進める内に気合が入ってきて、とても新鮮に思い、出版のお祝いをして頂いた頃には、何はともあれ生きていて良かったと思うに至りました。多分、出版作業により、自分を改めて内観できた結果だったと思います。

考えてみれば、日常は生きている時間の積み重ねで、お釈迦さんのいうように、その生きているそのものが苦しみというのであれば、その「苦」を受け止めて、そのままで日常を過ごして行く他はありません。
ただ、先人たちは自分の経験からその「苦」を和らげ、麻痺させる術を伝えてきました。

ある時、人生で最大の「苦」は死を考えた時に訪れ、病を得た時、老いを得た時にあると理解しました。まあ、産まれてからずっとこれに直面しているわけですから、人生は須らく「苦」の連続ということになるわけです。

昨今、若い人の自殺が多く、社会問題になっていますが、何時の世も人間は人を殺め、自らを殺めて生きる生物です。見渡せばポジティブに考える人もネガティブに考える人も皆同じで、物事に対する見方に相違あるだけのような気がします。ポジティブに見える人は案外苦しみが多く、悩みも深いため、明るくして自分の励ましているのだと思います。どちらが良いかは本人の自覚の問題で比較できるものではないようです。自殺を考える若者には、生きた体験を語るのが一番だと思っています。

日頃の苦しみは人との関わりに多く、比較、差別するために多いようです。
私の処方箋は「比べず、今ココを懸命に・・・」というところです。

30年前、斜に構えて詠んだ狂歌の感覚は、今に至りどのように変化してきたのか。

 

   大和なる 和の色を伝えかし 直ぐき思いや 花をたよりに

自分が過ごしてきた時間の中でこれならばというところを、次世代の若者たちに受け取って貰える。
これができたら望外のことだと思うようになりました。

 

 

2017年9月6日