日本のすがた・かたち
また、「人生に意味がない」ことについて問われました。
彼は私の文章を見て疑問をもったようでした。
今回はユダヤ人でナチスの強制収容所に送られたヴィクトール・フランクルの書『夜と霧』を持ち出されての酔談でした。
彼はフランクルの言葉を引き合いにして、「どこまで行っても人生には意味がある」はずだ、といいました。
要するに、「人は息を引き取るその瞬間まで、さらに人間として の尊厳を奪われかねない状態に陥っても、人生から意味が 無くなることは無く、"人生の意味"は絶えず送り届けられ、 発見され、実現されるのを待っている。また、“降りかかる苦しみにも、意味があり、その苦しみに対してどの様な態度を取るのかによって、苦しみそのモノの中に意味を見いだせる“」というものでした。
また、人生の意味は人それぞれ、「これが人生の意味だ」というものはない、とフランクルは教え、人生の意味を決定するのはただひとつ、「人生からの問いに貴方がどの様な態度をとるのか」の一点だともいいました。
そして人生の意味は、「誰でもが、どう意味付けるのかにかかっている」との結論でした。
フランクの本は若い時分に読みましたが、もうその頃の私は禅の教えに傾き、人生の意味の無さを禅問答の中から探っていました。自問自答でしたが、当時『碧巌録』や『臨済録』に魅せられていて、必死に「無字の公案」に向かい、ニヒリズムとは一味違う天空を自由に飛翔する翼を獲得しているような気分の頃でした。
人間である自分は、「自分の人生には意味がある」、と思いたいのだが、実はそのようにそれぞれが思っているまでのことで、「意味はない」という私の考えは今でも変わらないと話しました。
彼はいまひとつ分からないなあ、という顔つきになりました。
ここで人生についてのフランクの考えと、私の考えは、その出発点において決定的な違いがあるといいました。
フランクは苦しんだ挙句、「人生には意味があるはずだ」との問いから、「意味があるとするにはどのように考えればいいか」という求心的な考えに至り、私は、「関係のある他者にとっては価値や意味があるが、本人、つまり私にとっての人生には意味はない」、という立場だと…。
そして、今度の大震災の大津波で一瞬のうちに命を失った人たちに人生の意味があっただろうか。残った人たちには価値や意味があるが、亡くなった人たちに差別なく人生の意味があっただろうか。あるとしたら万人が同じ意味を持っていなければならないが、と問いかけました。
人生には意味がないことが判りだしてからの私は、生き生きとした毎日に遭遇することができるようになりました。喜怒哀楽のほとんどに意味を見出さなくても済むような感じになったからでした。
この思いを共有していたのが文人小野田雪堂氏でした。氏はこの意味を破願で顕し、「この今をありがとう」という謝念で伝えていました。
10月20日に雪堂先生の供養の茶会が行われます。
私にはすでに、「意味なし」を語りあった先生との再会の日々が始まっています。
(写真 小野田雪堂書 )