日本のすがた・かたち

2013年8月29日
幾下蒼龍窟

 HP20130829.jpg

 

私の好きな禅語の中に、「幾たびか下る蒼龍窟(そうりゅうくつ)」があります。

出典は禅の教科書『碧巌録(へきがんろく)三則』にある「為君幾下蒼龍窟(君が為に幾たびか下る蒼龍の窟)」です。

龍の持つ霊玉を取るには、蒼龍の棲む窟中に乗り込まなくてはならず。洞窟の中に入れば、どこ龍がいるのかわからず、一瞬にして襲われ命を落とすかもしれない、という意味で、悟りをひらこうと志を立てたなら、文字通り命をかけて修行をする、という意味といわれます。

20数年前、当時京都東福寺管長の福島慶道老師に何度か会いする機会があり、その折に頂いた扇子にこの禅語が書かれていました。

老師は、「蒼龍窟は坐禅堂で霊玉はお悟りです。」ともいわれていましたが、いずれにしろ、ひとたび志しを立てたなら、命をかけるほどの覚悟でことにあたることです、と話されました。その時の静かな眼差しはいまでも記憶に残っています。

人間は物事に対して安きに走る生きもののようで、人生の岐路に立った時、困難か安楽かの道を選ぶとしたら安楽な道を選ぶのが常のようです。私もそちら系で、現在でもその性格は変わっていないようです。

老師と交誼して頂いた頃は、禅寺再建の仕事で窮地に追い込まれていた時でした。その折この禅語に遇いました。ともすれば安きに走る性格が一変し、遊び好きで緩慢だった集中力が激変したものでした。

 

40にして惑わず、50は天命を知る、と『論語』で孔子が言っていますが、私はこの頃から多惑になり、50にして解らず、となりました。

岐路に立った時、どちらかといえば困難な道を歩むほうが成功裏に終わることは分かっているつもりです。しかしながら生来のものぐさから心身に錆びが出て、そのまま至っているのが現在のようです。

先年思い立ち、「日本人の優れた記憶」を次代を担う若者に伝えさせて頂こうと、今年6月、「Sのプロジェクト」を、九名の同志で立ち上げました。

これから「幾下蒼龍窟」の日々が待ち受けているはずです。

安きに走る脳天に、今一度”喝”を与えるため、幾たびかこの蒼龍窟に入ってみようと思うこの頃です。

禅語は私の心のオアシスだと思っています。

(写真 扇面「幾下蒼龍窟」 東福僧堂更幽道人・福島慶道老師筆)

 

 


2013年8月29日