日本のすがた・かたち

2013年7月4日
灯明

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灯明(とうみょう)のことを現代では照明器具といいます。

人間がものを認識するとき光を必要とします。光はあかりで、それをもって私たちはものを確認しています。

光のない時はどうするのか。たとえば漆黒の闇とか、眼を閉じている時とか。この際はものを認識するというより、物事の事を感じるというようになっているようです。感じることの大切さは、もしかすると認識より重大なことかもしれません。 

今日では、人が加工した情報で、多くの認識と決断がなされています。社運ばかりか国運を左右するような情報の元も、人が都合よく加工したものです。私たちはバーチャルの世界にさまよい、サイバーテロやハッキング(クラッキング)というような言葉がネット上に飛び交う時代に生きていて、それらに眼をそむけるようなことはできません。自らが感じる力をより必要とする時代に生きているのです。 

感じるあかり、これを私は求めてきました。

設計を始めると、私はあかりの開発にも着手します。建築のあかり、つまり照明(器具)は建築が出来上がってから取り付けるというようになっていますが、私は設計当初から創りだすことを心掛けています。あかりは物事を認識し、感じることの重要な要素となるばかりでなく、人間の精神に大きな影響を与えると思うからです。 

自然光しかなかった太古。火をあかりとした大昔。そしてテクノロジーを駆使してきたあかりの歴史。皆、あかりの存在によって森羅万象を意識してきたようです。現代では、いかにあかりの質が良いもの、省エネ、安全、安価なものが器具の主流となっています。これだけが果たして本来のあかりのもつ役割なのでしょうか。 

現在、人間の品性や精神を高めるあかりがあるか、といえば、ロウソクの火、それも和ロウソクのあかりのようです。またこの夏に行われる各地の火祭りのようです。

人間はテクノロジーをもってあらゆる物事を制覇してきたように見えます。しかし、生命体である人間の精神の制覇には及びません。その証拠が人間の喜怒哀楽や生き死について何も答えてはくれていません。

二千五百年前の仏陀の真理を一寸たりとも乗り越えていないのです。

これは人類が解決できない永遠のテーマなのかもしれません。 

私は今、「日本のあかり」の開発に取り組んでいます。今のところ本質を見極めるあかりは、自然光しかないのではないかと思っていますが、あかりによって人間の品性が高まる可能性があることは信じています。

自らの灯明で、道を探して…。

(写真  「禅のあかり」 1988年北米照明学会賞 受賞)

 


2013年7月4日