日本のすがた・かたち

2009年6月23日
聖者

HP-204.jpgベナレスの夜明けの河に漕ぎ出でて
精霊流しにうつす面影

                                                             
インドのベナレスで聖者が蓮のツボミを私に差し出しました。
毎年、庭先に蓮がツボミをつけるとその光景を思い出します。
華は泥の中から咲きますが、仏教の華が蓮と思っていた蓮が、インドを旅して、仏教以前の古代から崇められていたことを知りました。
後年、蓮は古代エジプトでも再生のシンボル、甦りの華として好まれ、豊穣の実を現す海石榴華(かいせきりゅうげ・ザクロ)などとともに古くから大切にされ、それが世界中に広まったことも知りました。
サドゥー(サンヤシンとも)はヒンズー教の出家した聖者のことで、晩年に何もかも捨てて家を出て、全国を行脚しては人々に教えを説き、最後はガンジス川のほとりで息絶え、その肉体を焼いた灰がガンジス川にまかれるのを願うといいます。いずれまたこの地に蘇るという輪廻転生の考え方のようです。日本人の死生観とは大きな違いがあることを実感したものでした。
そして聖者の姿に、その地の気候風土が深くかかわっていることを知らされました。
風土とは、その土地の気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称をいいますが、気候と風土はその地域に生きる凡ての生きものにとって最も重要な事象であり、生活する人たちに最も大きな影響を与えるものです。
それは食べものから始まり、生活様式、風習、儀礼から宗教さえもその風土から生みだされているもののといえ、それ故、私はその地の気候風土を学び、先人の歩んできた道を尋ねる必要があると思うようになりました。
文化というものは、生まれつきの能力や行動ではなく、生活をしていく中で身につけ、伝えられる能力や行動のことをさし、そして死を超えて生き続けるものと私は解していますが、その人間が生きてきた地の基礎的環境である風土こそ、文化と呼ぶに相応しいものではないと思っています。
紅い蓮のツボミがもう直ぐふくらみ、蓮華国といわれるような極楽浄土を連想する日が近づいています。
私は毎年、紅い蓮の華を見るたび、顔に白い粉を塗り、笑った口の中に一本の歯しかなかった聖者の、涼しげで憂いに充ちた眼の貌を思い出します。
(インド ベナレスの夜明け)
                                              
                


2009年6月23日