日本のすがた・かたち

2009年1月7日
松を飾る

HP-71.jpg新しき春の光を身に受けて
いにしえ人の居るを知るかな

新しい年が静かに明けました。
世界各地で宗教行事が行われ、新年のお祝いに人々が集います。
私は正月を迎えると、不思議に我が身のよりどころを捜すことがあります。特に神仏や先祖の存在に思いを巡らせます。なぜそうなるかというと、多分、自分の生き方や思い定めにチェック機能が働いて、将来に向けての方向や、その道筋の良否を考えるからだと思います。
そして思考を凝らし、その元をずっとたどって行くと、いつも必ず「死」に行き着きます。人間は有限なるものであり、例外なく必ず死ぬる定めにある私の死に、行き着きます。
そうしてみると、若い頃から私のお正月は「一年の計は元旦にあり」ではなく、「…死にあり」のようで、それは毎年繰り返されるものとなってきました。
有限な人の生を思うことは、裏を返せばいかに生きようかとの問いに繋がるもので、生と死はどちらも表裏一体であり、生死一体でもあるわけです。ここに人間は人間を超えた存在に思いを馳せるのでしょう。そして、人の世に宗教が存在するのは、背後に死があるからだと思うと、人間はいかに真摯に生を全うしようと考えている生きものだろうか、と改めて思います。
初日の出を拝む日本人は、根底に自然と一体になる志向があるように思います。それは宗教というものでは括れない、宗教を超えたもののようです。何事も自然界において起きているもの、人智を超えたところの自然界から起きるもの、との必然性的な考え方が強いようです。
古くから列島に暮らしてきた人たちは、このような考え方を好ましく思ってきた節があり、死への概念が薄く、むしろ死者になる自分がずっと生き続けて子々孫々を見守っていこうと積極的に思ってきた感があります。古代から続く正月の儀礼・儀式を見ると、この視線の先には争いごとはなく、皆で和し、物事を為すことが一番自然の理にかなっているぞ、と教えているようです。
世は声をあげて大不況を叫んでいます。
身近に職を失った人もいて切ない限りですが、これも長い目で見れば一過性のことのように思います。日本国中ががバブルで覆われて狂乱状態のときは共に狂乱し、大不況に陥った昨今は共に陥り、そうしながら日本人は静かに、逞しく生き抜いていきます。不況の時は不況に徹して、今という今を、生きるのがいいのかも知れません。
私の好きな俳句に、「この春も 松を飾れる 有難さ」というのがあります。
この句に託された、生きているという”有難さ観”を保持している限り、日本人の未来に限りない明るさを感じます。
人の心の底にあるものが謝念であれば、あらゆる物事に可能性が広がることはいうまでもありません。感謝の念は、人の中で生きる上で、大きな力となります。
古今東西の先人がそれを立証しています。
今日は7日、正月飾りをはずしながら、不況を脱した後の国のすがたを想像しています。
          


2009年1月7日