日本のすがた・かたち

2008年8月10日
濃厚な存在

HP-22.jpg知らぬとて
成すことの由を訪ぬれば
大和にひそむ夢を見るかな

3年前までは、常時インターネットと携帯電話を利用するようになるとは思い外でした。地球という星の小ささを実感する昨今です。
こうなってくると、確かにグローバルな考え方にのみ込まれ、個人はともかく、団体においてはその存在意義が怪しくなってきます。思想はグローバルでも中身に特色がなくなり、何でも同じようなことをし、同じような退屈さを味わうようになります。人と人、国と国とが一体になればなるほど、小さくても濃厚だった珠玉のような存在感がなくなります。
永く外国暮らしをしてきた日本人が、「自分は何人だか判らない」、といっているのが象徴的です。人間同士や民族間をいえば、その存在意識は濃厚な地域性、民族性によって保たれていたといえるのではないしょうか。情報が地球を駆け巡っている現代は、何度でも自国の言語や風景に立ち返る必要がでてきます。それは、自己の存在意義を確認することと同義となるはずです。
日本人であることの意識の確認はなかなか難しいことですが、私は、日本に永々と伝わってきている「か(こころ)・かた・かたち」を感受出来ればいいのではないかと思っています。そして、それは「私は日本人か?」、という問いから始まります。
過去、国際的に活躍してきた人たちにはこの内なる問いが常にあったようです。また日本人としての品性を常に考えていたといわれています。江戸末期、侍と僧は国際人だったといわれる所以です。
日本人がこころの中に濃厚にもっている日本なるもの。その瑞々しくも美しいエネルギー。私はそれを「和のこころ」といっています。他民族にはないものといわれ、しかもその普遍性においては類を見ないもの。
私たちの祖先は、これを子子孫孫に至るまで、心をこめて伝えようとしてきたのではないでしょうか。
私は今、日本人の直き濃厚さを思い、感慨に浸っています。
                                                                                                           
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2008年8月10日