日本のすがた・かたち

2019年6月10日
「絶学」

「う~ん、少し考えたね。」
書家の小野田雪堂はそういって私を見た。
眼は優しかったが、厳しい一言だと思った。
23年前、静岡市伊勢丹で個展をする際に書いた好みの禅語だった。

雪堂翁にいわれてから、この書が妙に気になり、開催初日から販売済みの赤シールを貼って今日まで残しておいた一幅でした。

 

昨日、梅雨時ながら虫干しも兼ね、初めて茶室の床の間に掛けてみました。
その折の記憶が懐かしく甦り、ご縁のあった方たちも既に鬼籍に入り、時の移ろいの速さに思いを致しました。

「絶学」は中国の唐代初期の禅僧永嘉玄覚禅師(禅宗六祖慧能の直弟子 675~713)の『証道歌』にある一句です。

 

       君見ずや 絶学無為の閑道人 妄想を除かず真を求めず
     無明の実性即仏性 幻化の空身即法身

 

雪堂翁は、「書家の書家臭い書」や「味噌の味噌臭き味噌」をよしとされず、禅にいう「悟りの悟り臭きは上悟りにあらず」と同じ境涯を生きていました。
学んだ法も、修した道も少しもちらつかせず、ましてや悟りだの迷いだの、禅だの神仏だの、その影ですら感じさせませんでした。それは馬鹿なのか、利巧なのか、偉いのか、仏なのか、凡夫なのか、さっぱり見当がつかないものでした。妄想を除かず真を求めず、唯日々の行いに囚われることなく淡々と…。

 

人間は、人と違う己を見せようと行動する生きもののようです。奇をてらった言動や、奇なる服装に身を包むと、何か特殊な人間になり、優越感に浸ることができるといわれます。

私はこの書に対った時、一瞬、筆が留まりました。その刹那、上手く書いてやろうとした気の迷いが生じました。書家でもない建築家の書とはこれほど凄いものだ、という優越感というか慢心が確かに顔をもたげたのでした。雪堂翁はそこを見逃さなかったのです。

久し振りに「絶学」に対い、未だに「オレという建築家の設計は別格だ!」という自分臭さに会いました。
「未だまだ、未熟者めが!」。優しい雪堂翁の声が聴こえていました。

 

 

本紙 60×88センチ

 

 


2019年6月10日