日本のすがた・かたち

2017年5月20日
「大麦小麦二升五合」

zen[1].jpg「大麦小麦二升五合」、「大麦小麦二升五合」

お婆さんがいつも有難いといって唱えていた言葉でした。

若い時、偉いお坊さんが生きてゆくのに一番大事なお経だと教えてくれたものだとのことでした。

 

確かに人間は食べ物がなければ生存できないし、生きて行くには「大麦小麦・・・」が大切なことは分かるけど、それにしてもお経としてはレベルがちょっとばかり・・・。

 

後年、禅僧との会話で人はなぜ悩むのか、なぜ苦しむのか、という件が出てきて禅語の話となりました。

「一言でいえば悩み苦しむゆえに人間だということになりますが、生きている限り誰もこの真理から逃れることはできません。ただ、悩みや苦しみから脱することはできる、と釈尊は教えました。囚われなければ良いということです。それが金剛経にいう「応無所住、而生其心」(おうむしょじゅうにしょうごしん)です。これは禅語として大切に扱われています。」

 

「オオムギ・・・ニショウゴン・・」ですか?

(前に聞いたお婆さんのお経に似た禅語だ!)

 

「オウムショジュウニショウゴシン」です。

「応(まさ)に住(じゅう)する所無くして、而(しか)も其の心を生ずべし、と読みます。」

 

語意は「とらわれない心」とのことで、人間は何かに心を置いてしますと、それに囚われ、それが苦しみや悩みの元となります。それを引きずらないことが大事で、心をどこにも置かなければ、どこにも心はあり、それが人生を軽妙に生きるコツというものです、と禅僧は話ました。

 

本当にそうだ、と思いながら、お婆さんの言葉を思い出し、そういわれても人間は囚われる生きもので、生涯かけて何かに囚われ執着する・・・。特に恋愛などは囚われの権化みたいなものといえるので、それに囚われないようにといわれても・・・。

 

「そうなるのが悟りの境地ならば、凡人の私は無理かもしれませんが」

「・・・悟れないことを悟るのが悟りのようですね」

「?、?」

結局のところ自分は「とらわれない心」となるのは無理で、直面する苦しみを和らげるには「少し囚われる」他はなさそう、と思いました。

何せ設計行為は囚われの連続で、これに染まったら昼も夜も恋愛真っただ中の悶え苦しむ人となるものです。

悶え苦しみ悩む日常が快感となっている私は、果たしてヘンタイ類ではないかと。

 

後にお婆さんのお経がこれだと分かり、有難いと思う心が信仰心だと得心しました。

大麦とホップと水があれば旨いビールができる。有難いことです。

 

 

写真:インド・ガンジス川のほとり(WEB)

 

 


2017年5月20日