日本のすがた・かたち
春往きて また夏は来ぬ 夜半の月
五月に入り野山は目に痛いほどの新緑に染まっています。
しかし6月になると牡丹や野カンゾウ、鉄線、エビネなどが終わり、一瞬ですが梅雨までの間に茶花はなくなります。この時期と9月は、蒸し暑さと残暑の厳しさと共に花の端境期(はざかいき)として茶事を避けるようにしています。
端境期の本来の意味は9~10月頃の古米に変わって新米が出回ろうとする時期をいいますが、ここから転じ、色々な作物が市場に出回らなくなる時期のことや、広義には「移行期」のことを指すようになっています。
人間生きていると幾度となく端境期を迎え、その都度大きく舵を切り行く道を変えることがあります。生き方を変えて行くのは必然的なことで、それこそ刻々に変化している諸行への対応といえます。
建築の端境期は冬といえます。諸準備のための期間として良いといわれています。
昔から社寺などの本格的な木造建築は、陽の長くなる春先から現場に入り、梅雨時には屋根を葺き、雨に濡らさず、その後筋交いなどを入れ、軸を堅固にして台風を迎え、冬が来る前に窓などを塞ぐことができるようにしてきました。
工事が冬を越すことになれば、室内に暖を入れ、左官などの水仕事は凍てることのないようにし、陽のある内に仕舞う仕事とします。長期にわたる現場はこの展開の繰り返しとなります。
木を伐り、乾燥させ、木取をし材にしてまた乾燥させる。
材種による性質をみて、反りやねじれのないように繰り返し繰り返し材料に仕立てて行く作業が、木造建築の良否を決める基礎的な条件といえます。
この過程は、親が子を育てて行く工程に似て、ひねくれないように、キズモノにならないように、材同士が力を合わせて建築を造って行けるようにとしているかのようです。目指す建築は社会と同じで、私たちは役割こそ違え社会の一員という分けです。
周囲には子育てに奔走しているお母さんたちがいます。
中には子育てを苦しみとして産んだことを悔やんでいる人もいますし、また不妊治療で苦しんでいる人もいます。子供は希望と苦しみを持ってこの世に出てくることになります。
何があっても目前の事実を受け止め、黙々と生きて行く。
色々な人生模様をみてくると、どうもこれに行き着くようです。
有漏路より無漏路へ帰る一休み 雨降らば降れ風吹かば吹け
私は端境期を迎える度に一休禅師のこの歌に救われてきました。
さあ、また私の端境期。面白くなってきたようです。
写真: 上 満月に向かう上弦から2日目の月
下 一休禅師