日本のすがた・かたち

2015年10月31日
脳裏の残像

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家から直線距離にして300mほどのところに、地響きをたてて落ちる滝があります。

相当な水量で落下するため周囲は飛沫に覆われ、暫くその中にいるとマイナスオゾンによるものか心身がリラックスします。

三つある散歩コースのひとつですが、根をつめる時間が続くと集中力が落ち、気分が散漫になります。そのような時に歩くのが滝ルートです。

 

暫く滝を眺めていて、ふと、スマホを取り出し写真を撮りました。

その仕草が、西部劇に出てくるガンマンが腰から拳銃を抜くようなシーンだなと思い、苦笑しました。そして改めて思い出したのが茶事での写真のことでした。

 

先週は茶事が続き、縁のある方々と交流しましたが、毎回出てくる要望が「写真を撮っていいですか」というものでした。

このシーンを残したい、という気持ちは分かるのですが、「済みません、ご遠慮願います」というのが、何時もの返答です。

なぜならば、茶事は主客が一緒に舞台に上がり、4時間という一会を演ずるようなものなので、その舞台の出演者が舞台上に展開されている演技を写真に撮るということは考えられないからです。

つまり、演者が観客になる分けにはいかないということです。

 

この時代に生きるもののほとんどは、画像や映像を見ない日はないといえます。一枚の写真は解説力や説得力は言うに及ばず、歴史をも切り取る記録的影響力を保持していますし、インターネット上に氾濫する画像に及んでは、その可否、是非善悪について有無を言わせず、世界を駆け巡る有様です。画像の洪水の中で暮らしているような時代といえます。

 

滝の写真を撮った時、ふと自分の中に潜む不安に出会いました。

何事も写真や画像に頼ると、自分の脳裏に遺こる感動は少なく、写真を見て思い出に浸ることはあっても本当のところを観ていない不安です。

 

今まで多くの古建築の調査をしてきましたが、分かっていることは、記録写真の多さに比例して建物を見ていない量が増えていたことでした。物事を自分自身の眼で観ることなく、カメラに記憶させて、己の五感をもって観て、感じていなかったのです。

結果、脳裏に留まることなく、画像がなければ反応できなくなり、自らの設計とはいえない時期にも遭遇しました。

それを脱したのは他ならぬ「木の鉛筆」でした。

私の場合、三百年先を目指す建築を設計するには、三百年経っても大丈夫な材料を考えながら、鉛筆によるスケッチからというもので、今風のパソコンによるデータ加工でない、紙に手描きという手法でした。

 

禅語にいう「漁夫生涯竹一竿(ぎょふのしょうがいたけいっかん)」が漁師であれば、さしずめ私は「建夫生涯(鉛)筆一本(けんぷのしょうがいふでいっぽん)」というところのようです。

 

筆一本といえば、写真や映像には関わりなく紙に筆で生涯をかけ生きた文人がいました。

11月3日の文化の日に、その先達の供養の「雪堂茶会」が行われます。

 滝の音を聴きながら脳裏の残像に話しかけてみました。

 

  残像に 紅葉しぐれて ひと昔

 

写真: (通称) 鮎止め滝                                                                                                                                                                                                                                                         


2015年10月31日