日本のすがた・かたち
黄昏時の銀座の街を歩くのが好きで、かれこれ50年続いています。
銀座の柳には若い頃からの思い出があり、そのほろ苦さがシャンソンと連れ立っています。
この頃は甲高い外国語が飛び交っていることもあり、上京しても銀座を歩くことが少なくなりましたが、銀座の黄昏時は何故か魅せられる時空間となってきました。
先賢は人の一生を一日の24時間、時計の短針の2周に例え人生をなぞられてきました。
60歳を過ぎた頃から午後3時過ぎとなり、70の頃は丁度黄昏時となります。
私はこの人生の黄昏時に差しかかり、何時しか日々を堪能しながら暮らしていることに気がつきました。ようやくこの時分になったのかと感慨深いものがあります。
これまでは見えなかったこと、理解できなかったことなど、山登りに例えれば年毎に段々高見に至り、山裾が広がり遠くまで眺望できるようになっていることに気がつきます。
歳を重ねるとはこのようなことだったのか、と今更のように思います。
我はまた生きる長きを花として 染る紅葉の今を観るかな
人生の達人と思える方々と邂逅してきましたが、懸命に生き切った方々でした。
その懸命さは何よりにも勝るもので、今日の私の道標となっています。
達人の来し方は違いますが、実践してきた工程と精神は同じように思います。
「人をバカにせず、人を無視しない」。
これはバカにすれば、バカにされる。無視すれば無視されるという人生訓です。
「自分を特別な存在としない」。
自分は他とは別格の人間である、という錯覚から目覚めよ、という考えで、自己評価の危うさを教えています。
最も敬愛できるのは、「人を変えようとしない」、という生き方でした。
人間は面白いもので、自分を変えることもできないのに人を変えようとします。仏教ではこの所業を苦しみとします。つまり苦しみの元を自らが創り出すのが人間だといっています。これにある解答を与えています。「人を変えたければ、自を変えること」。
自らが心から身を尽くし持て成していると、相手も心から応えるものです。来週から数回の茶事が始りますが、心しておく事は「心尽くし」です。
人生の黄昏時に催す茶事には、それ相応のものが醸し出されるはずです。若者たちに茶の湯で堪能できる人生があることを伝えられたら望外の喜びです。
亭主八分に客三分。茶事の亭主を務める楽しさや面白さは身を投じてみなければ分かりません。今、そのための準備に腐心しているところです。
「茶事は掃除に始まり掃除に終わる」
ここに先人の教えが詰まっているように思います。
♪ 「苦しみは・・・」
観音さまに任せて生きる 今もアシタもアサッテも
写真: 「聖 観音」 定慶作 鎌倉時代 千本釈迦堂(京都)