日本のすがた・かたち

2014年5月7日
BGM

yjimage[6].jpg設計が佳境に入ってくると、いつものように音楽が繰り返し流れてきます。

メロディーが独り言のように出てくるもので、私はこれを「オイラーのBGM」といっています。

この一週間ばかり流れていたメロディーは、ジリオラ・チンクエッティの「愛は限りなく」、ペリー・コモの「バラの刺青」、ポーラ・ネグリの「夜のタンゴ」などでした。

 

設計図を描いていると、その図面の種類によって予期しない音楽が訪れ、その流れのなかで作業をしていることがよくあります。

それも曲を選ぶということはなく、鉛筆を走らせていると、突然、脳内分泌物が創作意欲をかきたてるかのように、無作為に選曲してきます。

ひと段落ついてから、なぜ愛くるしかったチンクエッティが出てきて歌うのか、なぜドイツ映画の主題曲の「夜のタンゴ」が突如といて出てきたのか、思い起こしてみますが、答えはありません。

多分、設計している内容によって、思い出や、これから起きるであろう出来事が、選曲していると思うのですが、これも分かりません。

潜在的な心理は何時、何処で、何故に現れてくるのか、夢解きのような話になりますが、人間は、幼い頃から昨日までの経験や体験を通して得たものが、何かのきっかけで現れるように造られているようです。

 

設計作業の途上に音楽とともに出てくる呪文のようなものがあります。

この度は禅語で、「仏に逢うては,仏を殺し,祖に逢うては,祖を殺し,父母に逢うては,父母を殺し,始めて解脱(げだつ)を得ん」、というものでした。

「仏を殺し、師を殺し、父母を殺して・・・」

ちょっと物騒な言い回しですが、「夜のタンゴ」の合間にこれをつぶやいていました。言葉の本意は、いつまでも執着するな、と教えているものです。

師について修行をし、ブッダの教えなど真理を学んだならば、いつまでもそういうものに執着してはいけない、捨ててしまえ。いつまでも経典をありがたがっているようでは悟りも得られないぞ。仏や師をいつまでも拝んでいたのでは、本当の自分にはなれない。孤を怖がることはない、と。

確かに設計図に向っている最中は、仏も師も父母もありませんし、あるとすれば「孤立無援」の我が身だけです。意識はしていないのですが、その孤立の姿のまま、仕事をやるようにと、そして執着から早く離れろ、と自分に言い聞かせているようも思えます。

 

音楽と禅語。これが私のBGMとなって、この六日間静かに流れていました。

そうして設計は、すがたとなりかたちとなっていきます。

 

孤立無援は独りぼっちとは違い、支えてくれている人が沢山いることも知らせてくれます。

この頃、私も人を支える側になりたいと、改めて思うようになりました。

 

写真  「愛は限りなく」を歌うジリオラ・チンクエッティ

 

 

 

 


2014年5月7日