日本のすがた・かたち
ここに茶碗が二つある。
井戸形といわれるもので、ほぼ同じ大きさである。
時代は三百年ほど経っていると思われるが、一つは数百万円、片方は何万円という。
原料の土の量や釉薬の量もほぼ同じ、つまり工場原価は変っていないようだ。しかも作者は分からない。
この値段の差は何だろう。
茶道具といわれるものにはいつもこの種の疑問が漠然とついてまわっている。
よく見ていると、この茶碗には歴然とした差があることが分かってくる。得心がいくのである。それは濃茶の主茶碗と飯茶碗ほどの差であった。
日本人の美意識は七百年ほど前から茶の文化によって洗練されてきた。長い間に優れたものを峻別する能力を培ってきた。それを先人は眼力といった。
眼力は美意識に一本の線を引いた。美に基準を設けたのである。美の水準を価値基準としたのである。
私はそれを「茶味にかなう」という言葉におきかえている。つまり茶の湯にかなうか、言い切ってしまえばお茶に使える道具かである。
美術工芸品の良し悪しは、茶の湯の道具となり得るかどうか。ここが評価の分かれ道である。美術品と駄物の境目である。日本人は、古今東西の文物をこの「茶味にかなう」という物指をもって選別してきたのである。
茶道具はあらゆる文物を茶事という俎上にのせ、洗礼を与え、後世に遺すべきものをその眼力によって選定してきた。もし今日に伝わり残ってきた文物の大半が、茶味にかなうものだとしたらどうなるか。
茶味を理解できないものには、優れて美しいものを創ることはできない。また、後世に遺すこともできない。人々がそれを遺させないからだ。
あらゆる文化、芸術もこの茶味にかなうかどうか、この視点で見てみると面白い。
茶味とは何か。それは日本人が持ち得る最高の美意識だと私は思っている。
以上の拙文は15年前に書いたものです。先鋭的ですが、現在も私の思いは一緒です。
5月1日から始まる陶芸家の個展作品は、茶事に使うようにと、私を誘います。
初夏の修善寺を愛でながら、出かけたいと思っています。
写真 陶芸家 佐々木泰男さんの窯焚き
「萩 茶入」佐々木作品