日本のすがた・かたち

2012年8月28日
30万人同士

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人は他をいじめ、また人はいじめられます。

いじめは人間が存在する限りなくなることはありませんし、なくすこともできません。

人間は他をいじめ、そしていじめられるのが自然です。老若男女を問わずいじめは生きる証しであり、他をいじめることで優越感を得る行為は快感そのものなのです。 

いじめによる自殺は後を絶たず、自治体や教育委員会もマスコミ対応に追われ、またこれを撲滅しようと学校や町ぐるみで取り組んでいるのを目にします。そして、「このようなことが二度と起きないように…」という言葉を耳にすることが多くなっています。 

この頃は、いじめを犯罪行為として位置づけ、これによっていじめ抑止を促そうとする考えが防止対策上の主流となっていますが、これには違和感を覚えます。なぜならば、いじめが犯罪としてしか見られなくなると、そのいじめ度合いに線引きすることが必要となるからです。これは難しいことです。

子どもの頃、近所の子らにいじめを受け、泣きながら過ごした日々を思い起こす人が多いと聞きます。しかし、そのいじめた子らを見返してやろうと、一念発起して大成し、世のため人のために生きた人も多いはずです。昭和30年代のその時のいじめ側が犯罪者となった例は稀です。

 

多分縄文時代の昔から、そのいじめ度合というか、いじめ加減に何かの抑止力が働いていたことは間違いありません。「弱いものいじめをするな。ひとりを大勢でいじめるな。卑怯な真似をするな。」私が育った少年期は、この暗黙のルールを破ると親ばかりか、近所の小父さんからゲンコツをもらったものでした。特に「卑怯な真似はするな。」という躾はいまだに生きています。 

人間共に生きてゆくことの大変さに気づいてから、ルールを作り、破ったものを罰することは地球上何処で生活するにしても共通のものですが、極端な事件はともかく、いじめルールは都度対応するあいまいさが良いのでは、と考えています。

子どものいじめは家族を始め地域ぐるみで対処する仕組みを作っていく他に手立てはなさそうです。それは家族を単位として、それを取り巻く学校や周辺生活環境が、その時、その時代の価値観に沿ったものを編み出してゆくことです。

教育委員会や学校、教師の対応のまずさは、現代社会の精神的ゆがみを端的に現わしています。人間が在るところ、いじめは存在します。家庭や学校ばかりか、会社でも、役所でも、そしてそれらを教え諭すところである宗教界でも。

 

この夏の暑さは特別でした。全国で繰り広げられているお国自慢の花火大会や夏祭りも少し下火となりました。3日間で30数万人が集う三島大社の祭を見ながら、この人の波にもまれている皆が、いじめ、いじめられ体験をしながらここに集まっていると思うと、この熱狂をもって人は励まされ生きて行けるのだ、と思わずにはいられませんでした。

私は幼子の手を引きならら、先人が教え諭してきた、「卑怯な真似はするな」を、関わる子どもたちに伝えてい行こうと、今更のように思いました。

 

 


2012年8月28日