日本のすがた・かたち

2012年6月1日
母国語

 

日本人の精神構造は辺境的といわれています。

それは日本列島が地球上の中心ではなく、中国大陸や西欧から見ての辺境の地にあたり、その劣等意識が精神構造の深層に刻まれているというものです。
特に中華思想の中国に対して分家意識が強いといわれます。

これは認めざるを得ないところがあって、私自身も何かというと日常的に中国の唐や宋、元、明、清時代と直結する場面があります。詩歌、禅語、茶の湯における諸々、書画、篆刻そしてそれらを表現している文字の漢字がそうです。

飛鳥時代に我が国の精神の柱となった仏教、前後して伝えられた儒教、道教、それらに伴い流入した美術工芸の文物、これらは紛れもなく中国大陸よりもたらされた文化といえるものです。

その教育を受けた私は確かに辺境の精神に染まったひとりといえます。毛筆を持てば、王羲之や張即之、顔真卿が師となり、詩作に勤しめば白楽天や王維、陶淵明が出てきます。また日々の暮らしの中に折々出てくるのが禅語で、その文言に謂われのある虚堂智愚や臨済、趙州和尚たちです。
これらのことを考えてみると、まるで辺境にいる分家が本家の文化に憧れながら生活しているようでした。


ところが昨年の大震災以来、思うところがよく見えてきました。
辺境にいる分家が本家の文化に憧れているかに見えていたものは、実は我が国古来の精神性である広く深い大いなるものに包まれ育まれて形を成していたものでした。

外来の文化を吸収し、そのエッセンスを自国の文化に変換する日本人の能力の高さは誰しもが認め実感するところです。現代では反面教師となった感のある中国の精神性に学ぶものはないようです。日本列島に暮らす人々が学ぶものは、常に大いなるもの(自然・神)を範とする生活のように思います。

今、筆を持ち、私が書く文字は母国語なのだ、と今更のように得心しています。


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2012年6月1日