日本のすがた・かたち

2011年4月5日
演者

HP-0405.jpg歌と舞 音と曲とに和ごみゆくは
ひとの心か 春の花かと
                        
                                       
歌舞音曲の演者は不思議な存在です。
我が国では神話に出てくる「天の岩戸」の前で、アメノウズメの命が演者のはじまりといわれていますが、半裸の肢体で踊ったようです。
その踊りを見た者たちが、喜び騒いだため隠れていた天照大神が何かと思い、岩戸を少し開けてみたところを、タジカラオの命が岩戸を開き、天照大神が出てきて、またもとのような明るい世が出現した、という物語です。
江戸時代に『古事記』や『日本書紀』を解読した本居宣長以来、私たちは未だに日本の古代史に翻弄されていますが、私はこの神話の歌舞音曲の場面はまゆつばながら興味をそそられています。
人間は不思議なことに、何事かの時ばかりでなく、何気ない普段でも、音を出し踊りに興じるといったことをしています。日常が歌舞音曲の中にある、といっても過言でありません。
耳を澄ませばこの自然界には音があふれ、鳥は舞い、魚は踊っています。あらゆる生きとし生けるものが躍動しているそのままが自然の有様です。
あらゆる人間に平等なものは、時間と喜怒哀楽の量といわれています。考えてみると時間の貸し借りや喜怒哀楽のそれも無理な相談です。そして誰もこの軽重を計ることはできません。一人ひとりがどのように思うか、ということだけのようです。
そのためか、人は祈り、願い、そして憧れます。
そして人は、神仏が歌舞音曲によってすがたを顕わすことを知ってきました。音や踊りはそのためにもあると皮膚感覚で知ってきたのです。
私はなぜか、未だにはっきりそのすがたが分からないまま、「和の心にて候」という祭事を行っています。多分、私自身の中に潜む祈りのようなものが、歌舞音曲によってすがたを見せる、その刹那に遭遇したい、その一心なのかもしれません。
祭事で演じる者は、別人格を演じることで、違う人生を体験することになります。
また、考えている自分と違う人間の存在が確認できることになるでしょう。
そして、それを見ている者も、演じる者と同化することができるはずです。
今私たちは、この大災害に遭遇した人たちに、早く衣食住を充たしてくれるよう、生活の糧を得てくれるよう手助けをすることが急務です。と、同時に人々を励ますことです。
ここにきて、多くの演者たちがいち早く歌舞音曲活動を始めました。人が励まし合う美しさを見せてくれた思いがしています。
何はともあれ、演者と同化できる人たちが多くなってゆくことを願っています。
(写真 第3回「和の心にて候」 MOA美術館・能楽堂)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              


2011年4月5日