日本のすがた・かたち

2019年8月26日
曼珠沙華

「人は生まれ、苦しみ、そして死ぬだけです。人生には意味はありません。」
僧は私の眼の奥をジッと観て、静かにそういいました。

 

先日、30代一人、60代四人、70代二人の飲み会があり、話題は日常生活、健康や病気から芸能界に移り、やがて世界情勢や時事に、そして「死」について語るようになりました。
人間70歳前後になると必然的に「死」が一大テーマとなることは自然なことといえます。
夫々は自分の死生観に基づいて「自分と死」を語るのですが、聴いていると中々興味深く、人夫々はどうして「死ぬ」ことに異なる見解を持つのか不思議に思っていました。
(生まれ、苦しみ、そして死ぬだけなのに。嫌だといっても……)

その中に明解な死生観を語る人がひとりいました。
彼は「死は恐れることはなく、私は天国に召されるから。」と。
宗教による信仰を持っている人の強靭な死生観には敬服する他はありませんでした。
宗教は「人間は必ず死ぬため、ならば如何に生きるか」という宗(もと)の教(おしえ)というもので、世界に数知れずの教えは畢竟、如何に死ぬか、との教えといえるようです。

私はこの手の話題は苦手で、夫々が声高らかに死に急いでいるようでもあり、色気のある話題ならば得意なのに、何も酒を飲んで「死」を叫んでも、野暮というもので、しかし雰囲気は切迫してきて、茶化すわけにも行かず…。

この頃の私は、群れるのが苦手で、適応障害といわれようと、引きこもりといわれようと、ビールを飲みながら旨い料理を食べ、粋な話題で都々逸でもひとつ、という生活を目指しているのに、場の雰囲気からすると、いよいよ私見を述べなければならない状況になりました。

最年長の私は、先に30代の若者の意見を聞いてから話しました。
「痛いのは嫌だけど、生きものの死には良い死も悪い死もなく、死に様が良い悪いというのは残った者の主観で、今多い孤独死をいえば、厳然として息絶えて行くだけ。人は生まれ、苦しみ、そして死ぬだけ。人生には意味はないと思う」と。

 

私は若い時分に禅僧に邂逅し、その折の言葉が40年もの間、私の中に棲み付いていることを思いました。
ひとりが、「意味ないじゃーん、じゃ、サンマの名言だね。」
他のひとりから、「そしたら、どの様に生きるのがいいのですか。」と問われました。

私はビールを飲みながら、極意は「ケセラセラ!!」。

それ以上、私の死生観を話しても仕方ないことで、老人たちの夢のない話で、結婚したくない若者が一人増えるのもどうかと思い、話題を人妻パブの店に切り替え、皆を煙に巻きました。

 

40年前、禅僧は、「ですから而今(今ココ)を生きることです。」、と私に教えました。

彼岸が近づいて曼珠沙華が咲き出すと、厳しくも優しかった禅僧を思い出します。

 

 


2019年8月26日