日本のすがた・かたち

2008年7月26日
仮説

Image095.jpg山海に棲む神仏のみ験は
水と緑と空の蒼さと

この世にある全ての説は仮説です。
どのような優れた教えや思想も、それを知らず暮らしているひとにとっては仮説で、それを真実のものだと強く思っている者だけにしか通用しません。また、世界的にすぐれた理論も時の移ろいと共に刻々に風化し、いくらその証拠を並べてみても、時間の彼方へ消えていきます。ブッダが説いた、「諸行は常ならず」ということでしょう。
現在、私はその諸々の仮説の中で、1万5千年前の縄文の昔に日本文明が萌芽し、それが絶えることなく今日まで永々と続いている、との考えに立っています。思うに、その文明は宗教という分野で分類できるものと違い、自然発生した「かた(作法)」のようなものだと考えています。
人々は集団で定住生活が始まると、自然の営みや恵みの中で、大いなるもの(神々)の存在を感じとり、その中に生命が宿ると考え、祈り、互いに助け恵み合う互恵精神を生んできたのではないかと思います。自然の一部として学び、生活をし、その中から生きていくための「かた(作法)」という規範を、自らが自然に学びながら作っていったのでしょう。
私には、その根底を流れる「かた・かたち」こそが、「和の心」というもので、集団が和みの生活をするための規範、作法というものだと思えるのです。不思議なことに、これには宗教として定義する教義や経典というものはなく、宗教を超えたものだとしか考えられません。分類をすれば、人はそれを古神道と呼びますが、一分野の宗教と呼ぶには余りに広く、自然(じねん)の様のものといえます。和みの生活をする作法は、現在の私達の心の奥に秘められています。それはC・G・ユングのいう「遺伝子に刷り込まれている民族的・無意識深層・潜在意識」というものかも知れません。
有史以前から、我が国には異文化の流入が絶えず、今も実質的な移民が絶えない昨今です。しかし、異文化を持ちこんだ人々はことごとく日本化され、キリスト教、イスラム教信者は数パーセントに余ります。仏教さえもどこの国にもない日本仏教として作りかえられています。日本には世界中の国の食べ物や文物があり、どこにも異文化の移入を妨げるものがありません。巨大な胃袋と消化酵素をもった民族といっても過言ではないと思います。
その特異の消化酵素こそ、「和の心」のエキスだ、と思っています。
日本の人の血の中に、「和の心」が瑞々しくも美しいエネルギーとなって躍動している。それを私は実感し、大いなるものと共に暮らしてきた日本人に、大いなる可能性を感じているのです。
                                                                                                          


2008年7月26日