日本のすがた・かたち

2019年5月15日
山本玄峰老師

久し振りに禅寺「龍澤寺(りゅうたくじ)」を訪ねました。
私の所から約20分の距離で、もう30年も前から「散歩コースA」に指定している心休まる境内です。

令和に入って急に思い立ったのは、山本玄峰(げんぽう)老師のお墓参りでした。
老師のお墓は庫裏の西側にあり、土手を掘って横穴式の石室を造ったもので、死期を悟った老師は石室に入り、断食をして坐禅の姿のまま遷化されたという場所です。

 

老師は、和歌山県東牟婁郡四村(現・田辺市本宮町)に生まれ、産まれた後旅館の前に盥に入れて捨てられ、幸いに拾われたといいます。
十代前半の頃から筏流しなど肉体労働に従事し、17歳で結婚して家を継ぎましたが、1887年に目を患い失明状態となったため、家督を譲り四国八十八箇所の霊場巡りに旅立ち、素足で巡礼をしていたという逸話が残ります。

7回目の遍路の途上、高知県の雪蹊寺の門前で行き倒れとなり、当時の住職山本太玄和尚に助けられ、寺男となりました。その勤勉振りを買った太玄和尚に入門を勧められて修行を始め、後にその養子になり雪蹊寺の住職となりました。

その後、全国をまわって修行を続け、龍澤寺、松蔭寺、瑞雲寺など臨済宗中興の祖白隠慧鶴の古刹を再興しました。1926年からはアメリカ、イギリス、ドイツ、インドなど諸外国への伝導を開始します。帰国後に推薦を受け臨済宗妙心寺派の管長となり、後に龍澤寺の住職となりました。

1945年、終戦の詔勅にある「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言し、天皇を国家の「象徴」と定義する(象徴天皇制)よう発案し、当時の鈴木貫太郎首相の相談役なども努めたといいます。
1961年6月3日、静岡県三島市の龍沢寺自坊で96歳をもって断食、遷化し、葬儀には外遊中の池田勇人首相の名代として大平正芳官房長官などが列席しました。弟子に中川宗淵、田中清玄などがいました。
眼を患っていたといいますが、豪傑で高格の人柄で多くの人々を教化し、禅風を興した昭和の傑僧といわれます。

 

私は近くに住み、寺の後を継いだ中川宗淵老師とご縁があり、それが岐阜の瑞龍寺の設計監理の任に就くことに繋がるなど、龍澤寺とは不思議なご縁を感じ、お会いしたことのない老師に何故か親しみを感じていました。

 

私の生まれる年の八月十五日、昭和天皇による玉音放送がありました。その勅語と共に、象徴天皇制を発案した玄峰老師の慧眼こそ、今日の天皇文化を確たるものとした大きな力となったひとつといえます。
令和元年に即位された天皇から、上皇のなされた国民の象徴としての務めを果たして行く、とのお言葉がありました。
私は人類史上、千三百年も続き、世界に類のない天皇の存在を思う時、和を好む日本人の優れた智慧が結晶した文化の塊を思います。

 

文化とは時空を超えて伝えられ、育まれて行くものです。

石室の前には、老師頑張って生前履かれていたゴム草履が揃えられていました。お参りを始めてから30年間変わらない佇まいです。
山門を出る時、外国人の雲水と合掌による挨拶を交わしました。

先人が遺された日本のすがた・かたちに包まれながら、帰路につきました。
空は蒼く澄み渡り、鳥の声が送ってくれました。

 

写真:山本玄峰老師のお墓(般若窟)
下 龍澤寺僧堂前景

 

 

 


2019年5月15日