新之介文庫だより
新之介文庫の佐々木です。
水晶殿の柱、梁などの主要構造部は創建時、全国でも珍しく、静岡県では初めての鉄骨鉄筋コンクリート造(SRC造)でした。
改修にあたり、設計陣は60年前に造営主が構想したかたちをいかに具現するかに心を配りました。
当時の先端技術と、粘度の高い鉄と言う素材を組み合わせて設計され、今回解体後の調査で分かったことですが、終戦後に調達した材料としては、最高レベルのものであることも確認されました。戦後間もない頃、なぜこのような良質の材料が手に入ったのか。
造営主の岡田茂吉師は「必要な人、材料は必要なだけ揃う」と仰っていたそうです。
東日本大震災後、改修工事は一旦中断されました。
中断期間は 2011年3月~6月の4ヶ月間でした。
この間に施主側の組織は「聖地運営プロジェクト」から「水晶殿建設委員会」に変わり、工事の再契約が行われました。中断原因は大幅な構造の設計変更があったことによります。詳細についてはまた記述することもあると思いますが、いずれにしろ水晶殿のためには必然的なことでした。
太田はこの間、再設計の準備に追われ休みなく取り組んでいました。
本体コンクリートの劣化はかなり進んでいて、造り変えは余儀なく、改修後もこの構造・構法を用いることになりました。
しかし、現在の法律と照らし合わせると、問題もありました。
たとえば、屋根梁の高さ。普通に計算すると、かなり高い成(高さ寸法)が必要となり、改修前とはかなり外観に差が出てしまうことに。しかし他の構法の鉄骨造などにすると、水晶殿とはいえなくなります。
現行法の範囲で、最も安全で、デザインに問題がないような考えかたは何か。そこに行きつくまで、建築家と設計陣の細密な検討が何度も繰り返された。
構造計算も数度繰り返され、ギリギリのところで建築家はOKを出した。改修設計の難しいところです。またこの水晶殿は、文化財と同じ考えに立って後の世に遺すことも考えられていました。
そして、設計が完了。難しいと思われた建築確認申請も不思議にパスし、鉄骨の製作にとりかかりました。
千葉県の製作工場に太田、尾林が竹中工務店の山本所長ほかの人たちと鉄骨検査を行い、そして、現場に運ばれた鉄骨の建て方が始まりました。ここまでくるのが長い道のりのような気がしました。
最初の鉄骨柱が建てられました。構造設計担当の尾林が「このミリ単位の新旧柱の接続が命」といって、皆祈るような気持ちで立柱を見守りました。さすが、竹中さんでした。
御清めの立柱式が行われ、太田が代表して鉄骨柱を鉄道具で打ち、一同でお神酒を挙げました。
この時期、太田が詠んだ歌
紺碧の空に組み立つ黒鉄は 相模の朝に朱く煌めく
その後、構造体が計画通り、組上がって行く。
思えば創建時は現在のクレーンなどのない中で、組み立てたわけだから、その苦労はかなりのもの・・・。それにしても今回は、この後の工程が詰まってきている事もあり、現場の作業はますます忙しく動いて行きます。
鉄骨の建て方が進む中、太田は新たな難問に直面していました。
それは次回に。
(写真上 立柱式 中 鉄骨建て方 下 建て方完了建設委員会視察 )