日本のすがた・かたち

2015年8月20日
パクリと監視

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今話題の五輪エンブレムではありませんが、現代人はパクリをすることに罪悪感を持てない時代に息しているようです。

隣国はパクリ大国といわているようですが、我が国とて同じようなものです。

 

パクリ横行には「恥じる」という感覚麻痺があるように思います。

猿真似やコピーをすること自体に悪意はないと思っても、それにより報酬や栄誉を得ることを恥じないことが何より不思議なことです。

 

考えてみれば人類の進歩とはパクリの歴史のようなもので、踏襲や模倣も流行語的にはパクリといえます。インターネット社会に暮らしてしまっている私たちは、恥や外聞やオリジナルというものから遠のく世界に生きる者となりました。

 ならば、そろそろネット上の情報に関わる全てのパクリはお構いなし、と国連決議でもすると良さそうです。

そうでもしなければ、人はパクリ探しに明け暮れ、粗探し時代に突入することになります。恥や外聞もない世の風潮からすれば粗探しが正義となりますが、その正義に燃えすぎた人たちは、ネット上にコメントを書き、粗探しや監視に眼を光らせます。粗探しは快感の部類に入りますが、味気なく色気もないものでクリエイティブではないものです。まあ不満解消には役立つと思いますが…。

 

私は伝統的な木の建築を造る仕事をしている関係上、立派なパクリの権化だと思うことがあります。それは縄文時代から先人がデザインしてきた優れた記憶を、オリジナルとして世に出していることからいえます。

人間がデザインする初めの題材は自然界のすがたかたちでした。その模倣を何十万年前から繰り返してきた結果が今日です。伝統は統(もと)が伝わると書きますが、いってみれば新たな模倣の連続運動が伝統となっているわけで、伝統とパクリは表裏一体のものといえます。そう考えると私はやはり権化かも、と。

 

その権化の私はスマホ族を自認し、ネット中毒症状が全身に回っているひとりです。楽になるには手放すほかはないと承知していますが、一度スマホという文明の利器を得た身は、哀なしいかな、離すと楽より苦となる怖さを想像します。片時も離せない恋心と同じです。この中毒は中々治りそうにありません。

 

そして闇でも見える監視カメラです。監視に囲まれている今の時代は、危険が蔓延していることの証でもありますが、これから育つ子供たちは、ネットと監視カメラに強くなければ生きて行けなくなりそうです。

せめて私の動ける間は、暗闇で誰かと手を繋いでも分からないようにしてもらいたいものです。

人間の営みも情報の速さと、夥しい量の多さにかき消されて行きます。

何もかにもが一過性で、立ち止まって深く考えることも少なくなりました。

時の流れが速すぎるのです。

 

  都々逸

    時の流れが速くて困る 主の速さも記録的

速い主って誰? あのボルト?  ウフフ…。

                                                                                                                  

画像: 五輪エンブレム (ネットから拝借?パクリ?)


2015年8月20日