日本のすがた・かたち

2013年10月23日
煮つめる

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ものごとを煮つめてゆくことを知ってから20年ほどになります。

仕事に限らず日常の些末な出来事を、何の気なしに継続していると、知らず人生の本流のようなものになるようです。

人はこれをライフワークとか趣味といいますが、ひとつのことに長く執着している結果のことです。「継続は力」や「信は力」という格言はこれだと思います。

人間はさまざまですので、長く執着する種類も内容も違うのはいうまでもありませんが、このこだわりの元はその人の性質や性癖のような気がします。

2、30年とか生涯に亘り継続する行為こそ、ものごとを煮つめてゆく行動に他なりません。煮つめてゆくことを息絶えるまでできた人は充実した人生を、堪能しながら享受できた人といえます。

 

現代は情報過多による一過性の行動が主流をしめています。私たちはスマホやインターネットに象徴されるようなバーチャルな空間をウロウロしている時間が多くなっています。これからますます情報伝達装置への依存度が高くなることは目に見えています。

先日、駅のベンチで周囲を何気なく見ていたら、人は皆うつむき加減で、手にした小さなガラスの板を注視し、ただ無言で往来していました。

 

私はこれからのことを少し考えました。

若者たちはスマホなどの携帯端末が使えなくなったらどのような行動をとるのだろうか、と。そして煮つめてゆけるものがなくなっていったらどうなるのか、と。

 

これは杞憂でした。

何も心配に及ぶことはなく、次代を担う若者たちがそれなりにしていくことに違いないはずでした。かつて大人たちに「今時の若いものは」といわれた私たちと同じ立場でした。

 

ただ、煮つめてゆくものはバーチャルではなく、生きものである人間の五感や六感が選択してゆくものなので、天地自然の風光の中に身をおき、生身の体で物事を感じるように勧めたいと思いました。

人生は一切が苦しみといいます。生きている限り何人も苦しみから逃れることはできない相談です。ですが、先人は苦しみを味わうことができることを教え伝えてきました。

そのひとつが「煮つめてゆく」ことでした。

 

先日、鎌倉で茶会を催しました。

人と交わることは苦しみの元にもなりますが、味わいのある一会となりました。

茶の湯の儀式は、味わい煮つめてゆく所業のような気がし、自分はまだ煮つまっていないな、と思った満月の日でした。

 

(撮影  堀田晃子)  

 

 

 


2013年10月23日