日本のすがた・かたち

2013年3月25日
花のしたにて

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    ねがはくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月の頃

西行法師は、花や月など美しいものの象徴と、覚りを得たお釈迦様の入滅日にあこがれ、これを詠んだといいます。

 

春になると、決まって桜を観に行くのが習慣になっていて、この春も花見に出かけました。

私の場合、満開の桜の下にて酒を酌み交わすといった粋なものではなく、何となく眺め歩いてくる、というもので、どうも、桜を観るというよりも、桜のもとで、そこはとなく漂う寂しさを連れて歩いているようなものです。

満開の桜がハラハラと散り始めると、私はなぜか高揚します。

わずかな時間を生きて、そしてはかなく散る。これがいいのかもしれません。

 

京都を始め桜の名所で行けるところは回っていますが、花もさることながら、私は桜の大木にも気を惹かれています。

桜の木はどちらかというと異様な樹姿をしていて、老木は一様にオドロオドロしています。

ケヤキやクスのように、すっきりしていることが少なく、黒々と魔の手のように伸びたものが多くみられます。

それに淡いピンク色の可憐な花が咲く、それも固まりとなって、あたかも死霊が花のもとに潜むかのような様相です。

 

桜をなぜ日本人は好むのか、桜を観るとなぜ詩歌を詠みたくなるのか、なぜ唄うのか。

もしかすると、寂しいからかもしれません。

この世に生きていること、そのものが寂しいのかもしれません。

 

木を伐りながら仕事をしている私は、桜の木も好んで使います。

この木の中に、花びらが潜んでいたんだと思いながら……。

 

    ”散る桜ならぬ恋にもまたしきり”  (『建築相聞歌』)

 

(写真 京都醍醐寺の桜)

 


2013年3月25日