日本のすがた・かたち
富山県南砺市井波町は名高い彫刻の町です。
現在でも300人ほどの彫刻師が活躍しているそうですが、この彫刻の町の歴史は明徳元年(1390年)本願寺五代綽如上人(しゃくにょしょうにん)が、後小松天皇に許されて井波別院である瑞泉寺を創設したことに始まります。
その後、越中一向一揆の拠点となったため織田信長に焼かれましたが、江戸中期になり本堂再建の折に京都本願寺より御用彫刻師が派遣され、この時地元の大工(番匠)たちが彫刻の技法を学びました。これが井波彫刻の始まりです。
瑞泉寺には三度訪れています。
寺院建築の全体が彫刻で覆われている感があり、二度は仕事上の彫刻調査研究のためでした。今年の二月は近くの高岡市に仕事で尋ねましたが、その折、井波で仏師の弟子になっている森田彩乃さんに会いに行きました。
彼女は二年前に大学を卒業し、去年の四月から井波の仏師藤崎秀胤氏に弟子入りし、現在修行中です。私は今、10人ほどの若者たちと交流していますが、いずれも次代を担う手をもってものづくりをする気鋭の者たちです。中でも仏師修行の彼女には期待を寄せているところです。
訪ねたその日の井波はまだ雪が残り、工房にはストーブが焚かれていました。
彼女の眸は輝いていました。それと師匠である仏師藤崎氏には制作中の仏像を見せて頂きましたが、得もいわれぬ慈愛の眼を感じました。良い師匠に恵まれたな、と思いました。
そして、この八月、彼女が三島に携えてきたのが、習作の仏頭でした。
木で彫られたお地蔵さんの顔は命を吹き込まれる寸前のものでした。
彼女の精進振りが見て取れて嬉しく思い、駿河湾の静岡県沼津から富山湾の井波に移ってから、わずか二年足らずでこの水準は、と思いました。
「手に得て心に応ず」
見学や本や映像などで得る情報ではなく、ものづくりの原点は、実際に手で感じ、体で覚えて習得をするもので、そこに心が応じてくる、と先人は教えてきました。私自身もそれを実践してきたつもりですが、実際は難しいことです。それでもコツコツと体得したものは自分の想いを裏切ることはありません。
彼女の彫刻は身についている分だけの想いが表現されていました。地蔵菩薩の顔の半分は彼女の顔になっていました。
建築家、大工、左官たちの中にも日本の伝統技術の粋を習得し、将来活躍したいとする若者たちがいます。私は現在、彼らのために縁あるごとに習得してきた技法を伝え、機会があれば仕事を依頼し、日本人のものづくりは日本人にしかできないものがあるという事柄を手渡しています。
いつか彼女に本尊様を依頼したいと思ったこの夏でした。
(写真上 観音像の頭部の仏様を手伝い制作)