日本のすがた・かたち

2011年6月14日
アマテラス-3 子ども8人

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ヒルメムチは、父イザナギノミコトの後を継いで、第35代の皇統命(スメラミコト)となり、分家である山下の家のオモイカネノミコト(思兼命)を婿に迎えました。
『古事記』はヒルメムチを天照大神として神格化するあまり、夫をぼかしていますが、それでも「この鏡とオモイカネノ神とは伊勢の国の五十鈴の宮、すなわち内宮に坐(おわ)す神で」とあり、天照大神と思兼神をならべて内宮に祀ってあることを示しています。
飛騨高天原で重要な働きをした人たちは大ぜいいますが、思兼神だけが天照大神と並べて祀ってあることが夫婦であったことを遠回しに表現しています。
二人の間には5男3女がありました。
男子は、
● ホヒ命(出雲へ行く)
● アマツヒコネ命(近畿各地を開拓する)
● イクツヒコネ命(新潟の海岸を守る)
● クマノクスビ命(出雲で不明の死)
● アメノオシホミミ命(後継者、高木命の娘を妻にする)
女子は、
○ タギリ姫(スサノウの後継者、オオクニヌシノミコトに嫁ぎ、出戻る)
○ タキツ姫(出戻った姉と妹と3人で九州へ行く)
○ イテキシマ姫
この頃には分家制度が行きわたり、末子相続が行われていました。
末子のアメノオシホミミ命は、子にニニギ命、孫にウガヤフキカエズ命をもち、ひ孫の子(玄孫・やしゃご)サヌ命が九州から大和に戻り、初代神武天皇となりました。
飛騨高天原は、涼しくて食べものが豊富にあり、長い間平和で幸せな生活が続いてきました。しかし、2千数百年前ころから渡来人の上陸が頻繁となり、その中でも九州(筑紫)のクニには大勢が上陸し、土地を奪略占領するようになりました。
ヒルメムチは夢見でこれを知り、情報収集のために3人の姫を筑紫に派遣することにしました。この案内をしたのが鈴鹿にいた天孫一族の猿田彦命(サルタヒコノミコト)です。
この九州行きの重要会議が行われたのが、宮村の安川原(アマノヤスカワラ・現役場裏の川原)です。飛騨中の有力者が集められ、議長は思兼命でした。
この時に都をヤマノフモト(山のふもと・大和)へ遷す相談が始まりました。
外国人の排除と、飛騨の寒冷化に対応するための民族大移動です。
この大移動を後に「天孫降臨(てんそんこうりん)」ということになります。
いよいよ飛騨天孫族が表舞台に出てきます。
                                                             (写真 飛騨一之宮「水無神社」 旧岐阜県大野郡宮村)                                                                                                                                                                        


2011年6月14日