日本のすがた・かたち

2011年4月19日
ローソクの灯り

HP-0419.jpg光りには灯りに闇になるもあり
こころひとつの行方なるかと
                        
                                       
このところの節電で照明を消すことが多くなっています。
時折、茶事の夜咄(よばなし)で使う和ローソクを出して燈していますが、不思議な気持ちになっています。それは今までが明るすぎたことに気がついたことです。
若い時分に禅寺で坐禅をしていた時期がありました。
その時にローソクの灯りはおろか、線香の灯りで文字が読めることを知りました。
漆黒の闇には星の光りですら明るいものです。これは、人間側がその明かりに合わせて眼力を調整するからとのことです。
ローソクを見ていると闇の存在に気がつきます。
今風にいうと、ダークマタ―ということになるのでしょうが、闇の粒が辺りに浮かんでいるように見えてくるから不思議です。
明る過ぎると見えなくなるものがあるようです。
それはひとの思いと同じようで、思いが強すぎるとかえって見えなくなるものが多くなる、ということなのでしょう。
先年、「禅のあかり」という坐禅のための照明をデザインしたことがあります。
その時のコンセプトは、明るすぎず、暗すぎず、目にさわらず、というものでした。
一心に坐禅をする修行僧の姿を思い浮かべながら、坐禅堂で実験を繰り返していたことを思い出します。その時、茶事で使った和ローソクがあることを教えてくれたことがありました。
精神の集念と放念です。
集中と解き放つことは正反対だと思っていたことが、実は一緒のことで、一体のものだと知ったのです。
ローソクの灯りは精神を一心に集約して行きます。見て行く者に精神の統一を促します。また、坐禅の明かりは、それを気にすることがないようにとしますが、坐る者に精神の集約を促します。
相反するものの中に、同じ物事の本質が見えたと思ったものでした。
暗い照明は、光でしかものを認識できない人間にとって、忘れていた何かを思い起こさせるきっかけになるかもしれません。
今回の大震災が残していることは必ずしも負の遺産ばかりではないようです。自分の周囲が仄暗いと、人間が本来持っている野生的エネルギーが発揮されることになるはずです。
今は、文豪谷崎のいう「陰影礼賛(いんえいらいさん)」の世界が出現しているようです。
黄昏時から夜陰に紛れるころが、私の好むところです。
24日(日)は北鎌倉で「第5回 雪堂茶会」。
お世話になった、故小野田雪堂氏とローソクの話しに興じたことを思い出しています。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              


2011年4月19日