日本のすがた・かたち

2010年12月28日
ケセラセラ

HP-1229.jpgケセラセラ
なるようになる世の中は
かの一休の文の如くに
                         
                                       
一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は室町時代に活躍した禅僧です。
後小松天皇のご落胤といわれ、臨済宗大徳寺派の住持(47代)でした。
禅師は後に「一休さん」の愛称で呼ばれ、現在でも頓知のお坊さんとして子どもたちに知られています。
私が一休禅師と出会ったのは30代前半のことでした。
当時は禅に関する書物を漁っていた頃で、中でも禅師の風狂破格の『狂雲集』は私にとって白眉の思想書でした。その中に愛人森女との愛欲の情景を詠った漢詩があり、禅僧としてではなく、一人の人間としての生きかたに大きな影響を受けたものでした。
一休さんは数知れないエピソードを残していますが、その中に今でも私が「ウーン」と頷いている言葉があります。
それは臨終に際して、弟子たちに与えた立派な作りの箱の説明です。
「この箱には私の遺言状が入っている。しかし、すぐに開けて中を見てはならぬ。
仏道と寺の存亡に関わる重大な危機に直面した時、人々が集まって、相談に相談を  重ね、あらん限りの知恵を絞り、議論をたたかわせてみても、どうにもならぬ危急の際に17日間の間、大般若経を唱え、清めてから初めて箱を開けて読むがよい。
そうすれば大事件解決法は、たちどころに分かるであろう」
と、いうものでした。
その後、永年、遺言状入りの箱は開かれずに済みましたが、ところが100年も経ったある年、ついに大徳寺本山の存亡に関わる大事件が起きました。
問題は、どんなに努力しても解決が難しい深刻なものでした。一山のすべての僧が話し合い、自らの手では解決することが不可能と判断し、一休禅師の 遺した箱をついに開ける決意をした。
遺言どおり、厳粛なる法要を17日間にわたり営み、場を整えて、例の箱を用意し、すべての僧が、頭を畳につけて敬う中、大僧侶が箱の中から一通の遺言状を取り出し、読み上げました。
     「ナルヨウニナル シンパイスルナ」
これが遺言状の全文でした。満座は思わず、「あっ」と言って顔を見合わせたとのことです。
歌の文句ではありませんが、
 ~ケセラセラ なるようになるわ 先のことまでわからない~
私たちは普段、取り越し苦労や心配で心を乱し、成ることまで成らぬようにしてしまうものです。いらざる心配は無用のようです。全力を傾け精進し、最善を尽くし、後は宇宙の大法則にすべてを任せる生き方を禅師は教えたと思われます。
私は何時の頃からかこの言葉に惹かれ始め、周囲からは「ノーテンキ」と呼ばれるようになりましたが、未だに魅されてています。
   門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし (狂雲集)
除夜の鐘の音が「心配するな」と、聞こえるような往く年来る年です。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              


2010年12月28日