日本のすがた・かたち
鮮やかな光があるがよしといえ
妙なる灯りの陰も愛しき
和蝋燭には匂いがあります。
12月から2月の寒夜に「夜咄(よばなし)」という茶事を催すことがあります。その茶事の主役は灯火で和蝋燭(わろうそく)です。
4時間の茶事に照明として使われる蝋燭の炎は、人の表情を妖艶に変え、黄金の色の妖しさ存在感のある美しさを見せるなど、数々の幻想的な情景を伴った別世界を創出させます。
この情緒は現代生活には望むべくもないものですが、灯りを、という生活が生み出した先人の情感の鋭敏さにはただ驚くばかりです。
現代の灯りの主流はLED(発光ダイオード)になりつつあります。
LEDは自動車を始め、信号機の青、黄、赤の光源や、電光掲示板やIC機器、通信など、光りというものの全般に使われています。
人類が生活を始めた頃からの明かりの変遷は、太陽や月の自然光から火によるもの、篝火、灯火、 和蝋燭から、ガス燈、白熱灯、蛍光灯、LEDなどに変わってきました。それら灯りをみてくると、その時代時代の情緒的変遷を見る思いがします。
省エネや環境に配慮するという時代に遭遇している私は、このLEDに象徴される文明の利器に対抗する術はありませんが、「夜咄の茶事」の和蝋燭などには、この利器では達成できない情緒があると思っています。
和蝋燭の炎が生み出す陰影と匂いには、陰影が人間の精神に与えるものの存在を感じることができます。またそこに神仏を観ることすら可能に思います。
昨今は、はっきりものを言い、自説を押し通すことが善しとされ、人間の器である建築に至っては、凡てがガラス張りのように陰影を失くすことが流行りのようになっています。まるで日焼け美人が健康的であるかのような風潮といえます。人間は一人になって泣けるような暗がりが必要と思うのですが・・・。
現代建築には「陰影礼賛(いんえいらいさん)」というような繊細な日本的情緒を感じさせる空間創りは要らなくなったのかも知れません。
私は今、LEDを使った照明器具を設計しながら、新たに文明の利器が開発され、それが多用されるようになった時、今まであったものの周辺に寄り添っていたはずの情緒や行為がなくなる不安にかられていました。それが先日、飛騨古川町で和蝋燭作りの実演を見ていた時、自分も未だに和蝋燭を使っている不思議さに気付き、これからLEDを私の好む情緒の匂いで包むようにしてみようとの思いに至りました。
湯船に浸かりながら和蝋燭の炎を観ていたら、人間はどのような時代になろうと太陽や月や星がある限り、自然の営みとの接点を失くすことはないだろう・・・。そんな思いが湧いてきました。
多分、先人もそう思ってきたのだろうと。
(飛騨古川町 和蝋燭作り)