日本のすがた・かたち
来月末に茶事を行うことにしています。
例年、春や秋に催してきた茶事は今年で30年余となります。
茶事の面白さの説明は難しく、面倒くさい中にある自己肯定というか、自由への開放というか、いずれにしても一会が済んだ後の心地良さに止められない、というが実感です。
少し改まっていえば「時の堪能」ということになりそうです。
招く人を決め、連絡をして半年前から準備を始めます。
一会の主題は「床掛物」にあるため、正客となる方を楽しませ、頷かせ、そして一時を堪能して頂くために掛物を選びます。「道具の第一は床掛物」とは利休居士の言です。
他の道具は、客の顔ぶれを見て夫々が楽しめるように工夫します。道具を組む時の面白さは小説のストーリーを考える時に酷似します。
また茶事は、「禅の精神性と能の演劇性」によって初座、仲立、後座の三部構成に組み立てられているため、これがまた企画や構成、演出に直結することになります。
そして、その舞台が建築というかたちに結晶しています。
建築は人間の生活の器ですが、その中身は人それぞれに違う暮らしの舞台となります。
身体の不自由な方はそれなりに、健常者、幼児、高齢者、仕事柄など、それぞれに適した生活の装置ということになります。住いは住居で、茶の湯は茶室で…、と。
先人はそのための建築を創造し、工夫し造ってきました。
人間は何かの真理を訪ねる時、必ずしもその専門分野でしか訪ねられないということではなく、却って全く関係のない真逆の事象によって理解できることがあります。
私にとっての茶事は、まさにその真逆の舞台といえるもので、生業としている建築の設計を覚醒させ、堪能させる装置となっているようです。
我が国の文化の塊である神道、日本仏教、皇室、そして茶の湯。
近年、その精華は世界の人々に刺激を与え、中でも茶の湯は人との和(環)を創出するために編み出された仕組みとして、注目されているようです。
僅か四時間に全てをかける茶事の特異性は、刻々に生きる命のやり取りだと思っています。
さあ、超多用なれど、客の喜ぶ顔を想像しながら、明日もまた妄想の舞台準備へ…。
写真:近作茶杓