日本のすがた・かたち

2017年12月21日
縄文人の住い

今、世界で注目されている縄文人は、世界最古級の土器を作り、約5千年前の縄文中期には華麗な装飾をもつ火焔土器を創り、類を見ない独自の文化を築いたことで知られています。

縄文人とは、約1万6千年前から約3千年前まで続いた縄文時代に、現在の北海道から沖縄本島にかけて住んでいた人たちを指します。

最近、三島市にある国立遺伝学研究所の斉藤成也教授が、注目すべき発表をしています。
縄文人は、身体的な特徴などから、東南アジアに起源をもつ人びとではないかと考えられてきたのですが、核DNAの解析法で、福島県・三貫地(さんがんじ)貝塚の約3千年前(縄文後期の遺跡)の人骨を解析した結果、中国・北京周辺の中国人や中国南部の先住民・ダイ族、ベトナム人などがお互い遺伝的に近い関係にあったのに対し、三貫地貝塚の縄文人はこれらの集団から大きくかけ離れていて、縄文人が東ユーラシアの人びとの中で、遺伝的に大きく異なる集団だという結果を得たとのことです。

私は「飛騨の口碑」を伝えた山本健造説から、縄文人は渡来人ばかりではなく、飛騨大地に元々新人類(ホモサピエンス)がいたという説に与していますので、大陸半島から、南洋から、北方からの三ルートとミックスしたのが縄文人という見解でしたので、やはりと思いました。

木の建築を造ってきたこともあって、当時列島に住んでいた縄文人は、どのような住まいで暮らしていたのか関心を持っています。
縄文人が渡来人であれば、渡来する前に暮らしていた住いの様式が踏襲され、生活様式の変化があっても住いの形態は余り変わらず、中国南部や東南アジア系ならばそれなりの住いであり、それが北方系であればそれなりのものではないかと思っていますし、それが気候風土により改良され現代に至っていると考えています。
建築はその時代の生活文化の結晶であると考える故で、原日本人がいたとすれば木造の住居を造っていたはず・・・。
その木の建築はどのようなものだったのか。

有名な青森県三内丸山遺跡に復元されている縄文住居がありますが、あれはあくまで現代人の創作で、地面に穴を掘って柱を建てる掘立式の構造は納得できても、上屋は誰も見たことはなく、復元の担当者たちの推測の域をでないものといえます。屋根が草葺きというのも怪しく、最近の発掘調査の結果は、草の上に土を塗り固めた工法であった可能性が高いとしています。そうなると屋根荷重が大きくなり、柱の太さや、高さにも影響が出て、住居の形も違うものになる可能性も否定できません。三内丸山の最大の特色といわれる、日本最大級の縄文集落跡で、直径1mのクリの木6本を使った大型の掘立柱建物跡からの復元も見ましたが、想像の域を脱し得ないものといえます。

住いの周辺にある樹木や草や土を使い、住いを造り始めたという縄文の先祖から約2万年。
先人は工夫改良し、木の建築を造り、子々孫々に伝えてきました。それは不要なエネルギーを使うことのない、日本列島の環境に最も適した建築でした。

テクノロジーが世を支配し、アレルギーや花粉症人口の増大など、人体の劣化が目に見えてきた昨今。植林して建築材として使う仕組みを今一度考えられないかと思っています。

人間が生存して行くのに、そんなにエネルギーを必要としないのではないかと。
寝て、起きて、飲んで食べて、出すだけの人生ともいえるので・・・。

 

写真:三内丸山遺跡復元建造物

 

 


2017年12月21日