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「床掛物は〈帰去来〉(ききょらい)と書かれているようですが」
「はい、唐の詩人陶淵明の〈帰去来の辞〉からの一語です」
「確か、陶淵明が官吏を辞し、故郷へ帰ることの感慨を謳った詩といわれていますが・・・。書かれたお方は?」
「岐阜・瑞龍寺の清田保南老師です」
「故郷へ、いざ帰ろう、との意味と思いますが、本席に掛けられたのは・・・」
「この禅語が書かれたのは平成三年五月ですから、丁度二十五年前になります。その四月二十日は私が設計した瑞龍寺再建工事の最中でして、幾つも造る建築の中でも最も重要な「開山堂」の立柱式の記念すべき日でした。その日の境涯を老師はこの一語に託されたとのことでした」
「いざ帰ろうと…」
「太田さん、長く待った立柱式を迎えることができました。これから数多くの柱が立ち上がり、大建築がすがたを現すことになるでしょう。私はこの期に自分を初心に帰えそうと思いました。いよいよ歴史的な寺の再建が始まることを思えば心ははやりますが、ここで初心に帰り、また完成に向かって気を引き締めようと書を認めてみました。記念に是非頂いてください」
「老師さんが、完成に向けて一緒に初心に帰ろうと・・・」
「そうです。私は表具までして頂いた書を有難く頂戴して、我も戒めとさせて頂いたものです。生きていると毎日が惰性として流れていくような思いがしますが、今日の茶事を初心に立ち返る一会とさせて頂こうと本日の掛物とさせて頂きました」
「有難うございます。客としてお招き頂き、このようなお言葉に接することができて大変嬉しく思います。私も〈帰りなん、いざ〉を深く胸に仕舞わせて頂きます」
初座で床掛物を挟み、主客はこのような問答を交わしました。
茶事の道具の第一は床掛物といいます。数日続いた茂林の茶事はこの「帰去来」の禅語が中心となったことはいうまでもありません。
問答の後、懐石の相伴をし、初炭、主菓子を出し、中立ちの後、迎えの銅鑼を五つ打ち、後座で濃茶、薄茶と差し上げました。
一会四時間は瞬くまに過ぎ、主客は名残惜しや、と別れを告げました。
この濃密な時間は、また私の脳裏に刻まれ、人との出会いと別れの哀楽を教えてくれました。誰が考え出したのか、茶事は生きる切なさを共有し、そして明日に向かう希望を与えてくれる行為のように思います。
一日経った今日は一会の余韻に浸っています。
日本文化の殆どが詰まっている茶の湯の茶事は止められそうにありません。
写真:初座 床掛物「帰去来」瑞龍浦雲筆
後座 季の花 煤竹花入 自作