日本のすがた・かたち

2021年1月22日
自問答

「食べるために生きています。それが人間の本来の姿です。」

禅僧はそう言って私の眼の奥を見た。

「人間は生きるために食べるのだと思っていましたが…」、と言って言葉を飲み込んだ。

「何のために、という見方の違いは鶏が先か卵が先かの問答と同じようですが、命を繋いで行くという観点からすると、先ず食べるために生きることが本来です」

「それは目的が違うということですか?」

「生きるため、というのには生きて何かをするという行動が伴いますが、食べるため、というのにはただ命を繋ぐという、目的ではなく本能の働きというものです。そこには理屈は要りません。例えていうなら、赤子が母親の乳を飲む姿で分かります。ただ乳を飲むためだけに生きている姿です」

「赤子も生きるために乳を求めているように思いますが…」

 

私は続けて「確かに、私は食うために生きていると思うことがあります。先ずは食べ物を得るために働いているわけですから…」

「人間は食べ物を得るためにどうしていますか?」

「働きます」

「どうして働くのですか?」

「お金を得て、先ずは食べ物を得ます。それから物を得るために…」

「食べるために生きているようですね」

 

これは40年も前の問答でした。

その後阪神大震災、東日本大震災がありました。その折には日頃当たり前のことが如何に大事なことだったか思い知らされたものでした。有事になると人間は本来の姿に戻ることを教えられます。

その度に私の裡で「食うことか、生きることか」の自問答が続き、それが今日に至っています。

「設計をするために食べる?それは違うだろ」

「食べるために設計をする?これが本来の姿ではないのか」

 

現在、新型コロナの影響で日常だった生活が滞り、新たな生活の構築を余儀なくされています。これは良いも悪いもない現実のこと故、先ずは「食べるために生きる」ことにし、出来ることを出来る限り実行して行くことだと、今、自分に言い聞かせています。

 

私は「食べるために生きている」。

「飲食(おんじょく)に節あり」、を胸に仕舞いつつ…。

       禅僧と 食の問答 餅を食う

 

 

 


2021年1月22日