日本のすがた・かたち

2008年07月01日
和の心にて候

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和を唱え和を称えるはこの地より
いずる太古のヒトの情かな

日本人とは何か。この問いが私の中に、ある運動体を描かせました。3年前から私はそれを「和の心にて候」と呼び始めました。
その運動体は捉えどころがなく、ただ、虚ろな空間の中で揺らいでいるエネルギーと情報でした。 
若しかするとその運動体こそが、日本人の一人ひとりに具わっているもので、日本人の特質を現わす最たるものかも知れない。
今では、そう思うようになりました。

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 和の心にて候 “Wa no cocoro nite sourou”

Chanting and raising 和 (Wa) must be originated
From ancient human nature

What is Japanese humanity? This question has been tracing one moving element within me and I’ve began to call it和の心にて候 “Wa no cocoro nite sourou” for three years.
This is elusive one, and just waving energy and information in vacant space.
Perhaps, that is the inherent essence in each and every one of Japanese and the best reason for Japanese humanity.
Now, I think so.

(訳 あさの まみ)


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2008年07月03日
情で観る

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わずかなる時を生き得し子孫(うみのこ)よ
太古を偲び今に生かせよ

私は、日本人に内在する瑞々しくも美しいエネルギーを「情」という言葉におきかえています。
それは日本人が何かを観るとき、知的なものや感覚的なものの見方と違い、実感とも違う、情感、情緒という「情」的なもので観るからです。
これは日本人特有のものの感じ方、見方です。
物事を情で観る。まず、「かわいい!」の声からはじまる。情緒の中に生きる日本人を、私は誇りに思います。


                                                                                                           

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2008年07月06日
北の空へ

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大いなるものの命に守られて
ともがらたちと北の空見ゆ

この7月1日、私は「和の心にて候」の祭事を催すため北の空へ向かうことにしました。
7人のともがらたちと一緒です。中に「新之介組」の企画構成演出スタッフがいます。彼らは次代の日本を担う精鋭たちです。これから少しずつ「in熱海」のときのように仲間が増えていくでしょう。
彼らは自らの中にある「内なる日本」を確認し、磨き、実践し、伝えてゆくことの面白さ、豊かさに気づいてゆくことでしょう。朝やけの空は未知なる道を照らしているようでした。


                                                                                                           

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2008年07月08日
溢れるほど

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物は有る
あふるる程に有るものを
事のなき身の哀れひとくさ

私たちは物を造り過ぎています。消費の美名のもとにこれでもかこれでもか、と際限がありません。物があっても事がなければその存在が薄れます。エネルギーをただ放出しているような昨今。そんなに慌てなくても溢れるほどある「物」を「事」によって再生できるのではないかと思います。日本人は再生する智慧を培ってきました。
私は「物と事」を伝えてきた先人を称えます。


                                                                                                           

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2008年07月11日
等身大

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創造は造らぬことも大事なれ
情で量りてことを見し得し

世界中どこの既成都市も再生不能に陥っています。エネルギーを過剰に消費したためでしょう。国々が等身大のもの造りと自国の習慣、風習を保っていくだけの生活をしていったら、そう無理なものは造らなくて済んだのかも知れません。ドバイでは、いずれ巨大な廃墟となる可能性の高い都市づくりが進んでいます。資源を持たない日本人は、等身大の生活を見直す時がきたのかも知れません。


                                                                                                           

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2008年07月14日
現在地

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大いなる
神と仏の集う国
幾多の謂れそこにありせば

北の空へ向かう出発点は皇居前です。縄文の昔から続く皇室を、私は日本文化の中心においているからです。このよりどころはどこの国、民族にもないもので、日本人の具備する自然観や歴史観のもっとも結晶度の高いエネルギーはここにあると感じています。祭事「和の心にて候」は世界の各地を回り、終点は天覧で、というのが私の思いです。なつかしさを伴った和みの心が、改めて地球を巡る第一歩です。

                                                                                                           

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2008年07月18日
かた・かたち

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ひとびとは
儀礼によりて成り立ちぬ
茶の湯が見せる「かた」は日本や


人々を結びつけるものが祭りではないか、と思っています。
その儀礼、儀式ともいうべきものは、一見古びて個々のものに見えますが、本当のところはそれが連鎖し有機体となって民族、国家を形づくっているように思われます。好むと好まざるにかかわらず祭りや儀礼、儀式は、私たちの存在とその民族の輪郭を明らかにしています。

日本には茶の湯という妙なる儀礼があります。
森羅万象を網羅する茶の湯は、日本の「かた・かたち」を丸ごと表現するものではないかと思っています。それは、自然現象、季節感に始まり、神仏の精神性、禅の思想、能の演劇性、建築、庭園、文芸、美術工芸全般、茶道具、礼儀作法、茶花、料理、香道、服飾、歌舞音曲、そして風習に至るまでの大きなスケールで日本人の輪郭を現しています。

長い間、茶の湯の儀礼を生活規範としてきたところの日本人は、どこの民族にもない心の普遍性を持っていることになります。ともすれば堅苦しい作法や只のお遊び、戯れ事とみられる茶の湯には、同時に五体を投げ打つほどの精神性を帯び、深遠な日本の姿を見せるものが潜んでいます。
私は、日常生活のなかで茶の湯の「かた・かたち」を創ってきた日本人に未来を感じます。


“Kata” form
Folks’ have been based each formality.
Form in 茶の湯 (Cha no yu) is just Japan.

I believe we have been connected those around by various festivals.
We may think on the surface traditions of formality or ceremony are antiquated and each different, but most of them they have been actually linked, become any organisms and created an ethnic or a nation.
For better or for worse, festivals, formalities and ceremonies make our own presence a mold of the ethnic clear.
In Japan there is an unique formality called “茶の湯 (Cha no yu)”.
I found 茶の湯 covered all things in the universe could be showed all Japanese “Kata, form”.
It is defined Japanese on a big scale by everything, from natural phenomenon and feeling of the season to spirituality of God and Buddha, Zen, dramatic impressions of Noh, architecture, gardens, literature, general arts and crafts, tea utensils, manner, flowers for tea, cooking, incense burning, garments, music and dance, to traditions.
Thus, Japanese people having made the formality in  茶の湯 as rules of their life for the long term have unique universality.
There is always a possibility that 茶の湯 is considered having stiff formalities or just for the fun. However, it has spirituality like Wutitoudi and profound form of Japan in at the same time.
I’ve been thinking about the future for Japanese have created “Kata, form” of茶の湯 (Cha no yu) in their daily life. (訳 あさのまみ)


                                                                                                           

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2008年07月21日

hp0001-16.jpg子どもらに遺せし夏の静けさは
今も大和に絶えず続きぬ

夏の炎天下の風の絶えた午後。そこには恐ろしいほどの静けさが横たわっています。自然の中に身を委ねる時、季節の声を聴くことがあります。  日本の四季には味わい尽せない趣があって、その地に暮らす人々の心に、静かに沁みとおり、微妙な生活感覚をかたち作っています。これは気候風土によって永い時間をかけ磨かれてきたものです。私たちには、次代にそのかたちをそのまま遺し、伝えてゆく務めがあるのではないか。そう思っています。                                                                                                           


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2008年07月26日
仮説

Image095.jpg山海に棲む神仏のみ験は
水と緑と空の蒼さと

この世にある全ての説は仮説です。

どのような優れた教えや思想も、それを知らず暮らしているひとにとっては仮説で、それを真実のものだと強く思っている者だけにしか通用しません。また、世界的にすぐれた理論も時の移ろいと共に刻々に風化し、いくらその証拠を並べてみても、時間の彼方へ消えていきます。ブッダが説いた、「諸行は常ならず」ということでしょう。

現在、私はその諸々の仮説の中で、1万5千年前の縄文の昔に日本文明が萌芽し、それが絶えることなく今日まで永々と続いている、との考えに立っています。思うに、その文明は宗教という分野で分類できるものと違い、自然発生した「かた(作法)」のようなものだと考えています。

人々は集団で定住生活が始まると、自然の営みや恵みの中で、大いなるもの(神々)の存在を感じとり、その中に生命が宿ると考え、祈り、互いに助け恵み合う互恵精神を生んできたのではないかと思います。自然の一部として学び、生活をし、その中から生きていくための「かた(作法)」という規範を、自らが自然に学びながら作っていったのでしょう。

私には、その根底を流れる「かた・かたち」こそが、「和の心」というもので、集団が和みの生活をするための規範、作法というものだと思えるのです。不思議なことに、これには宗教として定義する教義や経典というものはなく、宗教を超えたものだとしか考えられません。分類をすれば、人はそれを古神道と呼びますが、一分野の宗教と呼ぶには余りに広く、自然(じねん)の様のものといえます。和みの生活をする作法は、現在の私達の心の奥に秘められています。それはC・G・ユングのいう「遺伝子に刷り込まれている民族的・無意識深層・潜在意識」というものかも知れません。

有史以前から、我が国には異文化の流入が絶えず、今も実質的な移民が絶えない昨今です。しかし、異文化を持ちこんだ人々はことごとく日本化され、キリスト教、イスラム教信者は数パーセントに余ります。仏教さえもどこの国にもない日本仏教として作りかえられています。日本には世界中の国の食べ物や文物があり、どこにも異文化の移入を妨げるものがありません。巨大な胃袋と消化酵素をもった民族といっても過言ではないと思います。

その特異の消化酵素こそ、「和の心」のエキスだ、と思っています。
日本の人の血の中に、「和の心」が瑞々しくも美しいエネルギーとなって躍動している。それを私は実感し、大いなるものと共に暮らしてきた日本人に、大いなる可能性を感じているのです。
                                                                                                          


2008年07月30日
直き思い

hp0001-20.jpg昔より
遥か昔の昔より
続くは花の直き心根


日本人に支持される心持ちに直(なお)というものがあります。

ケガレなきこころ、素直で真っ直ぐな思い、というものです。よく名前に「直」の字を採る所以はここにあります。世界でも稀なものの考え方をする日本人の自然観がよく現れています。これは太古から自然の理の中で暮らしてきた人たちの基本的な行動規範と考えられます。

自然の恵みがもたらす山や海から食べ物を得て、季節の運行や自然現象の中に身を置くには、どうしても直(なお)なる心根をもつ必要があったのでしょう。自然の中に暮らすには嘘や偽りは通用しません。通用するのは人間同士の駆け引きにおいてです。

私は、日本人にいちばん沁みついている精神(こころ)はこれではないかと思っています。直きこころ(精神)は自然と向き合うのではなく、自然の中で生かされている、というものの考え方が生み出した思いで、先人が永々と伝えてきた心根ではないでしょうか。そして花です。「花」は世阿弥のいう「秘すれば花」、芸術性という意味です。物事を情感で捉え、美しいものが人間の品性を高めるとした日本人の精神の現れです。

その精神(こころ)。その作法(かた)。それを磨いていく…。

これこそが瑞穂の国の美(うま)し思いだと思っています。
私は今、日本人が宗教という教えや導きからではなく、自然の事象、気候風土から生みだされ、育んできた直なる心根の気高さに思いを巡らせています。